愛と苦労

 

このふたつが私にとって密接に繋がっていようとは

 

自分のスピリチュアリティにフォーカスするまで

長い間、私はまったく気づくことができませんでした。

 

 

私はいつも自分を一番最後にする人間でした。

自分のほしいものを言わずに人に譲ることは当然で

 

自分を卑下して我慢することが美徳であり良い生き方だと思い込んでいました。


 

しかし私にはなぜかいつも大きなことではなくとも何かと面倒なことがやってきて、

必死にそれをこなそうと頑張らなければならないことがとても多くありました。

頑張っても頑張ってもなぜかスムーズにいかなくなることや

途中で中断せざるを得なくなること、

または重荷となるようなことが次々にやってきていました。

 

大変な不幸や大きな災禍に見舞われることはなくても

いつも小さないざこざ、うまく進まないあれこれで

私はいつも疲れ果て、強い人や要求の多い人に振り回され、

自分がどうしたいのかを考える余地もありませんでした。

 

私は一体誰のために生きていて、

私の本当にやりたいことは何なのか、

そこにいつたどり着いてやっていけることになるのかと

 

絶望的な気持ちでいつも自分を見ていました。

 

私は完全に自分自身を所有することができない、

中途半端な自分でい続けるために

ちっとも楽しめない日々を人生のほとんどの時間、長くそうして送っていたのです。

 

そんな私はある日あることに気づきました。

 

私のハイアーセルフがいい加減に気づいたら?とそれを示してくれました。

 

私はなぜこんなにもいつもスムーズではなく苦労するのだろう

それは大きな災難ではないにしても、それでも常にゴタゴタしている、

その苦労で私は何を得ているのだろう

私はそんな終わりの見えない苦労を求めて生きているのだろうか。。。と。

 

そこで私が気づいたことは

とても意外なことでした。

 

私は愛がほしいのだ、ということに気づきました。

その愛はなぜか苦労によってもたらされるものだったのです。

 

それは今となっては悪気のないことなのですが

私の両親がそれを教えたり戒めたりして

そのようなある意味では

苦労する私であることをいつも強く求めていたからでした。

 

 

苦労の先に幸福はある

苦労しないものは食べるべからず

苦労してこそ良い人間になれる

苦労は買ってでもせよ

 

自分を度外視して努力し続けなければ愛されないということを

私の両親は日常的に、エネルギー的にも

暗に強いメッセージで送り続けていたのでした。

 

そしてそれはありのままの自分自身でいることや

精神的、経済的に豊かになることまでも否定するエネルギーでした。

 

こういった考え方は私の骨身にまで染み込んでいて

もはや考えるまでもなくその概念に無意識に従っていたのです。

つまりその苦労、そのうまくいかなさ、

それらが私のアイデンティティの一部に

しっかりとなっていたのでした。

そして私はそのことに気づくこともなく、長い時間をそのままに過ごしていたのでした。

 

 

両親は私に不幸になってほしいと思っていたわけではありません。

ただ自分達の知っている世界で小さくまとまって生きてほしい、

自分たちの生き方の影響が及ばない遠い場所には決して行ってはほしくなかったのです。

それはつまり両親が自身で経験した人生のうまくいかなさ、難しさ、

成功はしないけれどもごくごく平均的で自分達をおいていかない、

先を行かないことであり、

自分達の概念の枠からは決してはみ出ることのない人間になることを求めていたからでした。

 

 

私は愛されたいがために物事をうまく進ませることなく、

無意識的にいつも苦労しながら進んでいました。

 

つまりできない私、自分の望みを100%叶えることのない私であれば

私の両親は愛を与え認めてくれていたのでした。

それはそのようなアイデンティティを両親がどこかで強要していたからだと気づきました。

目立ちすぎず、自分を中心に据えることなく

おとなしく“普通”でいることが彼らの望みだったからです。

私は両親の愛を得るためなら、

自分を殺して自分以外の人に一生懸命なろうとしていたのでした。

 

私が自分に満足して、やりたいことをしていることは

決して両親の意に沿ったことではなかったのです。

両親にそのようなつもりはなかったものの、

結局は私が自分自身でいる自由や豊かさを決して認めることはなかったのです。

 

 

苦労と愛が密接になり

ほとんど同一のもの、同義語に私の中でなっていたとは。。。

露ほども思っていませんでした。

 

自覚がない、認識がない、自分で認めていない、ということは

ある意味怖いことでもあります。

 

なぜならとても自然にそれを認め、

そのようになることを無意識で許してしまうことになるからです。

 

表面意識では私は楽をしたい、スムーズに生きたい、

気楽で心から無邪気になってみたいと思っているのに

 

自分の核の部分では決してそれを許さず、

苦労をし続ける自分しか

決して許してはいないのでした。

 

 

ここまで私が自分の内側の深い部分を見て気づくことができるようになったのは

やはりエネルギーについてフォーカスし続けてきたからでした。

 

私の長い長いエネルギーの学びの旅、

クライアントさんを通してのセッションを含めたその学びは

いつも私を意外なところに連れて行ってくれ、

意外な答えを見つけさせてくれました。

 

私は結局のところ、エネルギーを学び、知ることで

愛を学んでいるのだとようやくわかったのでした。

 

 

もはや私は両親を憎むことも嫌うこともありません。

難しい両親ではあったけれども

私に大いに人について、また愛について学ばせてくれたこと、

そして自分自身を発見する旅にしてくれたことに感謝しています。

 

私の父は昨年92歳でこの世を去りました。

今生だけではなくいくつもの転生の中で

私に数々のうまくいかなさや心労と恐怖を与えた父でしたが

それでも私はとても父のことを愛していたのだと

最期の日までにわからせてくれたことに感謝をしています。