2022年1月7日の東京新聞コラム、見習い日記で

ボクシングの村田諒太選手が興味深い記事を書いていました。
 

非常に心打たれる文章だったので転記したいと思います。
 

スポーツ選手というのはとても精神力がなければならないため

研ぎ澄まされた感性を持っていると思います。

特に一流と言われる選手の言葉や考え方は

スピリチュアルな点においても秀でていることが多いです。
(でも考えてみればどんな職業であってもあるいはどんな状況の人であっても、

研ぎ澄まされた感性の人はちゃんといるものだな、とも思います♪)
以下はちょっと長いけどコラムの文章です(^^)


〝昨年1年間何をしてきたのかと言われると、何もできなかったと答えざるを得ません。
 ポジティブに物事を捉えるのであれば

「何もないという状況を耐える経験をした、試合の延期や中止が7回も続き、

2年間試合をしないという経験ができた」と言えるのかと思います。
 しかし教育の上で、他者と競い、人よりも成果を上げることが

人生の宿題と言えるようなマインドを持った現代人の自分にとっては、

奇麗ごとやポジティブな言葉で片づけられる問題ではなく、

私と同じような思いをされている方も多いのではないでしょうか?

(そもそも教育だけではなく、人間が本質的に持っている業のようなものかもしれませんが)
 

「成功ほどの失敗はない」
 

OSHO(バグワン・シュリ・ラジニーシ)の言葉が痛く突き刺さります。
 生半可な成功を収めた人間は、自分のアイデンティティーが大きくなり、

何もできない状況を耐えられなくなる。
 自分はオリンピック、世界王者、これらを得て、何を得られたのでしょうか。

自分個人に目を向けた場合、あまりにもくだらないものをかき集めてきたことだと

絶望を覚えております。
 そしてその絶望すらも、他者から見たら絶望する状況に見えぬことも、

この「成功」というものが視界を狭くしている証拠なのでしょう。
 

ただ他者に目を向けた場合はそうでもないのかもしれません。
 試合で元気になった、一つの発言、発信に

勇気づけられたという言葉をいただいてきたことは、

決して無駄ではなかったという一つの証拠なのかと思います。
 下手に成功を収めた一番の苦しみは何かと言うと、

個が大きくなり、「全体」から切り離して

自分というものを過剰に生きてしまうことではないでしょうか。
 

大きな流れの一部であり、寄せては消える波の、

その一滴のしずくであるということを受け入れるための、

今は試練と言える期間なのかもしれません。

たとえ得ることができなくても、失うことを経験していく。

それでまた大河の一部となれるのでしょうか。
 

仏陀(ぶっだ)は「生老病死」という人間の苦脳を表しております。
 生という苦行を乗り越え、新しい何かへ。

自分にも皆さまにも、

そういった2022年になることに祈りを込めて1月のコラムとさせていただきます。
(ボクシングWBA世界ミドル級スーパーチャンピオン)

 

 

 

私はまったく何も成功してもいないし、

アイデンティティも大きくなってはいませんが、

なんとなくこの方の言いたいことに共感しました。

こうした思いというのは今の世の中たくさんの人が経験しているのではないでしょうか。
 

村田選手が言っている「成功という失敗」
それならば「失敗という成功」もあり得ることと思います。

大河の一滴だけど、その一滴を

思う存分流れの中で噛み締めながら味わいたいなと思います(^ ^)
 

 

 

 

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