さっぱりブログを書く気が起こらなかったのは、そういう状態だったからなのかもしれない。

 

自分の状態が変われば世界の見え方も変わる。

 

でも、ブログを書く時位は自然体でいい。

もちろんそれ以外の時でも自然体でいい。

 

ともかく、理由をつけてブログを書こうとしていなかったという感じもある。

 

要は、気分が乗らなかったということ。

 

とはいえ、マイページを開いた時に右側に表示される画像が鬱陶しい。

それを見た瞬間に書く気力が失せる時も多々ある。

 

でもそれも外応なんだろうな。

「自分が」それに反応しているということで。

 

反応しない人は反応しない。

反応しているのは、自分の中にあった何か。

 

で、何故今回書いているのかというと、ストレスが溜まっていたということを自覚したから。

 

ストレスは溜め込むよりも発散。

そのままの形?で出すよりも、昇華させて発散。

ストレスの元になった事と同じレベルで発散させていてもしょうがないかなと。

時にはそれが必要だったとしても、そればっかりでは進歩がなく、繰り返してしまう懸念もある。

 

「今何故これが起こっているのか」

 

ではなく、

 

「今何故この事に自分がこの様に反応しているのか」

 

 

起こる出来事そのものに意味はなく、それに対する反応が意味のようなものを作り出す。

 

 

なるようになる、ということ。

 

理非曲直は、人の数だけある。

 

 

もやっとした事があったのだけど、そういうことか。

どの様な「結果」になっても、それは自分も含めてそれを選んだ人の「結果」。

 

いつの間にか、誰かの責任まで負おうとしていたことに気がついた。

 

 

なんだかんだ言っても、心の「重荷」を下ろすのに、こうして書くことは有効らしい。

それをその後公開するかどうかは別として。

 

 

今日は夕方に雷が轟いていたけれど、それも外応だったのかなと思いつつ。

 

なお、稲光と雷鳴を鑑賞するのも好き。

 

 

外応は自分の中(状態)の投影。