人生の岐路には腹に据えかねる人物がいることもある。
ただ、その時感じた怒りをいつまでも抱えていたら、いつまでもその人物に自分のエネルギーを贈り続けることになる。
まさに、思い出す度に時間と集中力を使ってわざわざ贈っている。
(そして、自分が発したエネルギーは増幅されて世界から帰ってくる。
まるで、釣り糸を垂らして撒き餌をまいている様に相応のものが。)
そんな存在を自分の意識のスペースに住まわせるだけでなくエネルギーまで贈るとか、まともに考えたらありえないこと。
だから、そんな相手を自分の人生の流れの変更に必要だった「転轍機」だと認識するようにした。
進路を変えるために多少の摩擦が必要になる場合もある。
その役目を終えたものにいつまでもこだわらない。
起こったことは変わらない、しかし、それに対する解釈は変えられる。
今見えている世界は、その事が無ければ見えなかったのかもしれない。
そして、それが良いことなのか悪いことなのかを決めているのは自分。
良いことも悪いことも流れの一部を切り取って判断しているだけのこと。
より良い、と思える経験があるのであればそれを選べばいい。
そのためにも、エネルギーを浪費している場合ではない。
余裕を取り戻し、「無駄」の使い方を選ぶ。
無駄というよりも「遊び」かな。
最近気になっていたこと。
車のMTは無駄か遊びか。
最近やたらとMT車が気になっていたのは欠乏感を埋めるためだったのではないかと思ったけれど、
将来それを手に入れる流れがあるのであればそうなるのだろうと思った。