数字のゼロ「0」はインドで発明されたことで有名ですが、それが発明される直前に「何もない」という意味で使われていた記号「・(ドット)」が今でもとても実用的に使われていたことに気づきました。
それもこの日本で。
家の外に出れば割と目にすると思います。
あえて「・」ではなく「0(ゼロ)」を使用する特殊な場合もあるらしいですが、そこでは数列の一部として今も多分「何もない」という意味で使われているのだろうと思われます。(正確な理由は知りません)
参考:ギズモードジャパン『世界最古の「ゼロ」記号、その誕生が従来より500年も早かったことが判明』
↑正確には数学で使用される「0」とは別物だと思いますが。 あ、だから「記号」か。
どこでそれが使われているのかについては、気が向いたら探してみてください。
使用される際の特殊な場合といえば、ゼロは数学の世界では欠かす事ができないものですが、同じく数学の世界において図形を利用して計算をする際に欠かすことができないものについて特殊な解釈がなされていることがあります。
曰く、「点には面積が無く、線には幅がない。」
どれだけ大きな「点」であろうとそこに面積は無く、どれだけ太い線であろうとそこに幅は無いのだと。
概念的にはともかく、そんなもの目で見える訳が無いのですが、数学の計算をする際にはそのように考えるのだそうです。
考えてみれば、地図の国境も県境も概念上のものですよね。
その実物を見たことは無いし、そこにあると思い込む他に無い。
そういえば物質の境界も突き詰めていけば曖昧なもので、とてもミクロなレベルではその境界の両側の違いは判別できない位になっている様です。
水の水面における気体と液体の境界面とか、ものすごい速さで分子が運動しているのでどこを境界とするのかという所。
更にミクロな視点で見ると、金属などの固体であっても物質を構成する原子はその大半がただの空間で(水素原子の大きさを野球場のサイズまで拡大したとするとそのその中心に1cm位の原子核があるという感じ)、その原子の原子核すらも同様にその大半がただの空間なのだとか。
ということは、原子核を構成している素粒子すらも同様である可能性も。(素粒子は粒子なのかひもなのかという話もありますが)
目で見る分においては明確に違っている様に見える物質同士の境界ですが、ミクロなレベルでは同じようなスカスカの空間が隣合っているだけ。
そこにはどの様な違いがあるのか、あるいは何がその違いを生み出しているのか?
そんなことを考えていた今日この頃。