ここ2日ほど、自分の中にあった怒りの感情を開放してみた。
その原因がどこにあるのか今ではほとんど解らなくなっていたそれを、ヘミシンクを聞く際にアファメーションに追加することでガイドさんたちの助力を仰ぎながら。
その結果、ヘミシンクを聞いている間には明らかにそれと解るものは、、、
無かったかなと考えていたら、2日目の波の音の導入時の砂浜のイメージで砂浜が黒い石ころだらけになっていてそれが怒りの感情を象徴するものだったという事を思い出した。
そこで、波の音に続くエネルギー変換ボックスのパートで砂浜にゴロゴロしていたそれらを吸い込んで変換していた。(残ったのは白い砂浜)
そのあとはクリックアウトしていたり、その後夜寝ている間に様々な夢を見てそれが閉じ込められていたエネルギーの開放になっていた模様。
ただ、次の日朝起きてからしばらく、怒りの感情を求める様な心の動きがあったことに気づいた。
ペインボディなのか、怒りの感情への中毒というか、それを行うことでエネルギーを得ようとしていた感じ(実際には消耗するだけだけど)。
そうしたことから、怒りの感情そのものに問題は無く、怒りを求める思考パターンに問題がある(問題があるとすれば)ということに気づいた。
怒りを求めるということはそこに何らかのメリットがあるということ。
怒りは賦活剤ともなりえるので。(ドーピングとも言える)
しかし、その強度及び頻度にもよるが長期的に怒りが心身に与えるダメージは看過できない。
怒りを感じた時に心身にどの様な反応が出ているのかを観察してみればよく判る。(血圧、呼吸数、心拍数の上昇、筋肉の緊張等々)
その状態を継続させない方が自分自身のため。
ただ、怒りそのものはその様な意識状態のひとつに過ぎない。
怒りというフィルター。
視野が狭くなるとか些細なことに反応するとか、全体から特定のものをピックアップするまさにフィルター。
世界はあるがままに在り、それに色付けをしているかもしれないのが自分の感情というフィルター。
それならば、幸せのフィルターを使う方が遥かに良いと思う。
(怒りを感じている人の世界を知るために一時的にそのフィルターを使うのはありだとは思うが)
と言いつつ、以前は失恋の歌とか不平不満を垂れ流す歌とかも好んで聞いていた事もあったよなと思い出しながら。
そしてそれらの感情を自分の中で再生産していた。
歌はそのメロディにどの様な感情と言葉を載せるかによって変わる諸刃の剣だと思う。
くだらない歌はくだらないということを認識することで、その害を最小限に抑える事が出来るかもしれない。
最近、職場で流れる有線の音楽が1年前と比較してかなりまともになったよなと思いつつ。
目の前の世界が自分の意識状態を反映しているとすればステップアップしたということなのだと思う。
それは多分、自分と自分が関わる存在全てにおいても言えること。