朝のテレビで、「優先席を譲る時に」という話がありました。

それ自体は良いことだと思うのですが、例えば「お年寄りに」とかその人を見ずにその概念で行動するのはどうなのだろうと思ったので。

 

極端な話になりますが、ブラック企業でヘトヘトに疲れて優先席に座って帰っている人が、遊びに行くために元気いっぱいで乗り込んできたお年寄りに席を譲る必要があるのかどうか。

私は譲る必要は無いと思います。

 

でも、そうしたことを妻に話したら怒り出しました。

お年寄りには席を譲るべきなのだと。

 

お年寄りと言っても様々な人がいるし、お年寄り扱いされたくない人もいるだろうと理詰めで話を進めようとしたら余計に怒り出したので話をするのを途中で止めましたが、それって「お年寄り」というイメージで話をしているだけだなと。

 

そこで思い出したのが以前妻が言っていたこと、「自分がされたくないことはしない」ということ。

確かにそれは正論、私もそのように心がけています。(実際に出来ているのかどうかは別として)

ただし、「だから、あなたもそうするべきだ」(あくまでそういう雰囲気)は余計なお世話。

 

またそれは、将来のために現在の行動を制限しているということでもある。

 

という事を考えていて、「朝から不機嫌になるような話をされたくない。私がこうしているのだから、あなたもそれに応じた反応を示すべきだ」ということかと思っていた所、それはまさに自分自身がそうしていたということに気づきました。

相手の「自分にとっての好ましい反応」を引き出すために、自分の行動を変えていた面があったということに。

 

それは、自分が何故それをするのかという原動力に関わること。

 

他人の反応をその源泉にしていては、いつまでも不安定で自分の軸が育たない。

それを気にしていた自分を認識しつつ、本当はどうありたいのか、何故気にする必要があったのか、それはこれからも必要なものなのか、そうした部分に意識を向ける。

 

ということを繰り返して開放、統合中。

 

制限の中の自由。

制限があるがゆえの自由。

この世のゲーム。

 

相手の怒りに巻き込まれず、それを観察し、自分の中にあった共通する部分を笑って受け入れる視点かな。