先日、アパートの給湯器がかなり微妙な感じになったので大屋さんに相談した結果、最終的に交換してもらいました。
微妙な感じというのは、シャワーを全開で(と言っても元弁の方で適量になるように調整しています)使用している時に、お湯から水になって再びお湯になるということを繰り返していたという状態です。
検索してみると冷水サンドイッチ現象というものに近い状況で、数年前の入居当時から起こっていた現象だったのですが、最近特に頻繁に発生するようになっていました。
1回の入浴(シャワー)で10回以上それが繰り返される様になったので、もういい加減に我慢ならんということで。
大屋さんに相談した所、その日のうちにガス会社の方に連絡をされ、担当者の方がやって来て「安全装置の不具合」ということで次の日には交換という事になりました。
交換前のものは15年位前のものだったのでそろそろ交換時期であるということは認識されていた様です。
交換後、今の時期は水道水そのものの温度が高い事もあって、給湯器側に流れる水の量が2L/分を切ると安全上消火するという機能上、冷水が途中で出てくる現象は完全には解消されませんでしたが、発生頻度と水に切り替わった際の温度の低下具合はかなり抑えられる様になりました。
やっぱり新しい方が性能がいいですね。
それはそうと、今回書こうと思ったこと。
様々な「道具」は、それまでよりも高いレベルの視点を提供することになるけれど、いずれそれはそれ自体が視点の更なる上昇を制限することになることもある、ということ。
道具とは、物質的なものであったり、考え方であったり、手法であったり。
それらを利用した場合、いずれ慣れる。
その時、それをそのまま使い続けるのか、それをベースに新たなものを探すのか創り出すのか。
同じ事を繰り返すのは、面白くない。
いずれ飽きる。
ただそれは、エゴがそう思っているだけかもしれない。
全く同じことなど本当は存在しないのだから。
何かを手に入れようとすれば何かを手放す必要がある、かもしれない。
それは特に目に見えない「もの」を。