認識を制限しているのは自分の思考。
制限しないと受け取れないものもあるけれど、それがまどろっこしく感じることもある。
あるひとつの事象をどの様に捉えるのか。
それは過去の認識の焼き直しではないのか。
常に、今最善の選択を行っている。
それが後から見て(判断して)どの様なものであったとしても。
それが無ければ、「今」から見た判断もありえなかった。
とはいえ、より良い(最善の)選択を行うという意識は常に持っている。
それが妨げられるのは、思考パターンの条件反射に乗っかった時。
その時は、気付かないかもしれない。
でも、かすかに違和感を感じていた。
思考パターンと思考は異なるもの?
思考を止めてはいけないと幼い頃から言われ続けてきた。
「考えろ」と。
「考えれば答えが出る」と。
その様に言った人は、そう思い込みたかっただけかもしれない。
答えを出すのは簡単、認識する範囲を制限すればいいだけなのだから。
「それ以外」のことは考えない。
そうして生きてきていた。
思考を際限なく広げたら、とりとめがつかない?
そういえば、そんなことをしたことがあったかな?
そうだ、思い出した、
今はネット上に存在しないブログでそれに似たことを行っていた。
発想が拡がると何につながるのだろうと。
それはそれで面白い経験だった。
それもひとつのパターン。
今は新たなパターンを探している?
パターンは後からついてくるもの、その様に見えてくるもの。
雛形は見えない世界に既に存在しているかもしれないけれど、
この世界には体験をするためにやって来た。
意図的な認識の制限。
そこに善悪は無い。
善悪の概念が出てくる時点で、まだそれに対するこだわり、囚われがあるのだろうとは思う。
「自分」が「良くない」と思うことが苦しみを生み出す。
現象はただそこにあるもの。
そこまで完全に割り切れるかどうかはまた別の話だけど。
同じ、又は共通する認識があってこそ相互のコミュニケーションが成立する。
私は一体誰とコミュニケーションをとりたいのだろう。
コミュニケーションをとるために認識を変えること。
これまではそれを「ありえない」ことだと頑なに考えていた。
認識は変わるものであって変えるものではない、と。
それこそが認識の制限だったのかな。
様々な認識の形の重なりがコミュニケーションにつながっていく。
自分の認識の外側に拡がるフロンティア。
それを感じるための制限?
この世界はゲームでバーチャルリアリティ。
そうなのかもしれないなと思いつつ。