ndステージ -1 / 3038歳(1988年〜1996年)

サイクル (その時代のテーマ)9

ピナクル (現れやすい状況)5

チャレンジ (挑戦する課題)4

 

それまでは好きなものを積み重ねていけば結果が伴うと信じていらしたのかもしれませんが、プロとして華々しい成功を収めた後に1つ階段を上って見えた景色は、今までのやり方が通用しないという現実に直面することになり、新しい取り組みをしたり海外での活動に目を向けたり、葛藤とひたむきな努力の時期に入られたように思います。

 

1988 「CAROL A DAY IN A GIRL'S LIFE 1991〜」等の制作、海外の動向を探り、最新の音源に直接触れるために小室さん一人の仕事で費用をペイする事を条件にロンドンに渡る。          

1989 シンガーソングライターとしてソロデビュー。リードボーカルを担当した「RUNNING TO HORIZON」、「GRAVITY OF LOVE」が連続でオリコンシングルチャート1位を記録。       

 

4周期の1011の年になりますが、イヤーサイクル10はスピリチュアルフォールと言われ新しい発見がもたらされるとき。海外での活動は決して満足いくものでなく、むしろ自分の無力さを痛感したと小室さんは言われていて辛い学びになったかもしれませんが、その代わりスタジオワークの面白さについてインスパイアされたことで、新しい音楽の方向性の模索が始まります。

 

1993 音楽プロデューサーに徹する決意を周囲に表明する。東京・芝のオフィスビルのフロアを借り切り、個人用のスタジオを3軒建て、ミキシング専任のスタッフをロサンゼルスとロンドンに抱え、配送スタッフを週2日定期的に行き来させる等、いつ誰とでも楽曲制作が出来て、スムーズに海を越える態勢を整え、「1993年はスタジオで音作りに明け暮れた」との記述が残されています。

 

5周期の「5」~「6」の年に入り、海外との関わり、新しいチャレンジを繰り返し、小室さんのもう1つの大きな肩書である音楽プロデューサーとして本格的に傾倒していきます。「6」はサロンナンバーと言われますが、まさしくその仕事をするための環境も整えられたことも大きなチャンスとつながっているのでしょう。

 

1994年から1999年の間に数々のミリオンセラーやヒット曲を打ち立て、各メディアにおいて「小室ファミリー」、「小室サウンド」、「小室系」といった名称でカテゴライズされ、自身の少年時代からの夢だった小室ブームという社会現象を起こしました。

 

19958月にglobeデビュー。

イヤーサイクル「8」になり、小室ブームの絶頂期に結成したユニットになります。

 

デビューと同時にその知名度は爆発的に上昇し、多数のメガヒット曲が世に出されます。「8」の年は達成の時ともいわれ、小室さんの最大の力を見せつけるかのように、富や名声、成功を手にしていったのでしょう。