書道史②甲骨文と金文/字界、字画の成立 | 四柱推命日記

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司馬遷の史記によれば

三皇五帝の時代のち殷王朝に先駆けて

夏王朝が出現したとあり、

夏の始祖の禹王は黄河の治水で功績をあげ

先帝の舜から天子の位を譲り受けたという。

考古学上は夏は甲骨文を持たず

しかし殷と同様の青銅器文明であった。

 

2004年の発掘で河南省の二里頭遺跡に

殷墟より古い紀元前2100年~1600年頃の

大宮殿をもつ古代都市跡が発掘され、

これが夏王朝の王都であったと考えられている。

その全体都市面積は約10万㎡に及ぶ。

 

 

そののち、古代宗教国家殷

(甲骨に見られる当時の正式名は商)は

夏の桀王を殷の湯王が誅したことに始まるという。

この殷の初代湯王は天乙ともいい、

伊尹の補佐を受けて鳴条の戦いで

暴虐な桀を討った。

 

 

天乙は殷王朝の始祖契(殷)から14代のちの王

とされるが、卵生神話で生まれたとされる契から

数代の王はおそらく神話上の人物であり、

天乙より以前の干支名をもつ数代の王

(報丙、報丁、主壬、主癸等)は

商(大邑商)という一つの邑制国家の長

であったと考えられる。

 

 

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殷代に入り甲骨文がみられはじめるのは

殷朝第22代王の武丁の頃からである。

そしてこれが現代の漢字の祖先である。

 

一般的によく知られているように

亀占は亀の甲羅の裏側を薄く加工し、

そこに熱した木を当ててヒビを入れ

そこから国家占技として方位や吉凶を占う。

 

古代日本では鹿の骨で

同様の占いを行っていたが

亀占が中国から伝わると宮中祭祀では

亀卜が採用され、2000年代に入った現代でも

大嘗祭で用いる稲の採取地として

悠紀と主基の国を決定する際、

亀卜が使用されている。

 

古代中国の殷では神権政治のもと、

亀卜の結果を甲骨文字に刻み残していたが

漢代には廃れ、唐代には断絶している。

また亀卜は最初に裏側に窪みを入れることで

卜の結果は事前に加工できた

(恣意的に吉象に出来た)ため、

卜というよりは一種の国家祈願の

呪術の一環であったとも言えよう。

 

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たとえば甲骨文では父の字は父権の象徴である

斧(フ)をもつ手の形で象形される。

また母の字は両乳を垂れ跪く女の形である。

王の字は王権の象徴である

鉞まさかりを象っている。

この象形文字(いわばピクトグラム)が

現在の父母、王という漢字の大元となった。


 

殷の甲骨文はいわば神聖文字であり

国家占技を残した秘文であるから

国家外へ流出する機会を持たない。

ゆえに司馬遷が史記の殷本記に

その記述を残していても

実際に殷墟が発掘され殷王朝が

実在証明されたのは

1950年の事である。

 

 

のちに殷は紂王が暴虐を尽くしたことで

西周に滅ぼされるが、

これは客観的には周が殷から青銅器文明と

文字という一大文明を奪った事にも等しい。

 

しかし周は殷の祭祀儀礼を

既に形骸化した悪習であると非難し、

本来人と神との対話である占卜は採用しなかった。

ただ文字や青銅器への刻印技術のみを

伝承したのである。

 

 

おおよそ武丁の頃に始まった

初期の甲骨占卜や祭祀儀礼は

天地の対話、天帝と天子を繋ぐ

国家祭祀として真摯なものであったが

やがては形骸化し頽廃して

徐々に王権自賛の趣を強めていた。

 

殷の中央集権の腐敗は

紂王の時代に極度に達し、

紂王は妲己を侍らせ、酒池肉林、

炮烙といった悪政を強き

民衆を苦しめたことで

西周の武王に誅された。

 

そして周は王と諸侯の間の証しとして

恩賞した祭器の由来を金文で青銅器に刻む

いくらか宗教色の薄い文明を手に入れたのである。

 

この殷周代の甲骨文、金文は

時代が進むにつれて宗教色を薄めていき、

続く春秋戦国時代に入ると

諸子百家の言説を通してさらに脱神話化し

その千年にも及ぶ時間と空間の変遷から

秦の篆書(小篆)へと進化していくのである。

 

元来神界と人界を繋ぐための

神聖なツールであった文字や干支は

こうして人界に降りて、

王による統治や庶民の生活や教育に

必要不可欠なものとなっていった。

 

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字界と字画の成立

 

現在の漢字はおおよそ四角いマス目に

綺麗に収まるような均等な字界を所有する。

同時に均一な太さの線で構成される

字画文字なのである。

 

この字界、字画の意識は原初の甲骨文字では

あまり意識されておらず、金文、

篆書、隷書、と時代を下るにつれて

均等な字界や字画が一つの美として意識され始めた。

 

 

例えば王の字は本来は鉞まさかりの象形であり

斧をイメージしてもらえれば良いが

王の最後の一画は鉞の刃の部分を表している。

 

金文の時点ではまだ鉞の形を残していたが

篆書になると線形化したことで

王の字に鉞との関係は疎遠となり

ピクトグラム⇒文字への抽象化が極度に進んだ。

 

こうして秦の篆書は象形文字の呪縛から

解放され、同時に古代宗教国家としての

殷の世界観をようやく超越していったのである。

 

 

史頌鼎金文

 

↑金文は甲骨文のち、殷の19代王盤庚の頃に生まれ、

青銅器に碑文として鋳込む技術が確立されていた。

初期の金文には字界の意識が薄いことがわかる。

 

 

 

 

漢字における字界の成立は

中国語の単音節孤立語の性質から生まれ

話し言葉が文字という宇宙に吸収され

個々に独立して存在するようになった。

 

同時に字界という外圧によって

画数の多い文字は枠からはみ出さぬように、

画数の少ない文字は枠の境界に達するようにと、

書は内圧と外圧の均衡の元に成り立つ

矛盾の構造を所有することになったのである。

 

 

これを書の逆数構造といい

文字の内圧だけでなく、常に外枠から逆算し

余白まで計算してデザインすることが

求められるようになったのである。

同時に文字は場という現実からの力を受け止め

政治的文字として地に足を付けたことを意味する。

 

 

 

そして字画の成立により

篆書は象形文字から切り離されて

言葉を支えるだけの単位として抽象化し

字形も散文化し近代化した。

 

これにより篆書は秘文であった

甲骨や金文の時代から庶民の文字、

言葉の単位として文明周辺に伝播した。

 

 

当然最も大きく影響を受けたのは

漢字文明を継承した日本であり、

夏殷の青銅器文明、

秦の篆書という文字統一、

度量衡や貨幣の統一は

渡来人を通して日本に伝わり、弥生時代の

青銅器文明に直結したのである。

 

 

かつて秦の始皇帝時代に方術師の

徐福が不老不死の仙薬を求めて

未婚男女数千人と共に東海に派遣され

日本に渡来したという伝説も

あながちあり得ぬ話でもないのである。