未月の象意/ 京都祇園祭と牛頭天王 | 四柱推命日記

四柱推命日記

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未月は現在の7月であり、

旧暦6月(和名水無月)に当たる。

 

十二支の第八位であり、

方位は南南西、月は六月、

時刻は午後一時~午後三時、

季節は季夏、六月小暑より七月立秋の

前日までを指す。

蔵干は節入りより丁9、乙3、己18とする。

 

 

巳午未夏運のうち未は晩夏に相当し、

夏の終わり(季夏)の強烈な土旺であり、

三合木局の墓庫で木性の死ぬ所となる。

 

現代の7月は実際には梅雨の終わり頃であり、

水は大変豊かな季節であるが、

和名の水無月というのはこの強烈な土旺から

土剋水で水気が弱る事を指している。

 

 

易では六月未月の卦は天山遯

午月に一陰差した陰が勢いを増し

二陰となり、結果天と山が合した形である。

 

天山遯の遯とは隠遁のことであり、

小人の力が強まり君子が時運から

遠ざかり隠遁していく象意でもある。

 

よって陰の気が強まり衰退の象意であるため

逃れ、隠れ、隠遁する方が禍がないという象意でもある。

そこで潔く身を退くべき時であり

終わり方を綺麗にするときでもある。

 

 

未の字は象形文字であり

木の枝葉の繁ったさまを表している。

同時にその実に味わいが出る事であり、

味の字が口と未で出来ているのは

そもそも未に滋味の意があることによる。

 

史記には

「未は萬物皆成りて、滋味あるなり」、

説文には

「未は味いなり。六月は滋味なり。

五行の木は未に老ゆ。

木の枝葉のしげれるに象るなり。」

とある。

 

 

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未月の象意は真夏の終わりで

まさに火生土で土気が最強の力量を

有している時であり、未は燥土である。

土気が最強であることは当然に

水気は強く剋されて弱ってしまう。

 

六淫の中で梅雨時は湿邪や水毒となりやすく

体内の水分が発汗などでうまくコントロールできず

むくみや熱中病(熱射病)になりやすく

また五臓で胃腸の病であり、食中毒や

胃腸の弱りに注意を要する季節である。

同時に体内の津液を適切に保ち、

強く剋される腎の食養を要する。

 

とくに今のように冷蔵技術の無かった昔は

食物の腐食が早く、食中毒や伝染病の季節でもあった。

 

 

未月の強烈な土旺を抑え、

中庸の理で健康を保つにには

同じく土性でも真逆の湿土である

丑をぶつけることが最良の手段と古代人は考えた。

 

それで未月の丑日に牛肉(丑)を食べれば

最高であるのだが、牛肉は農耕上の聖獣であり

明治以前は食肉が禁止されていた。

 

それで代わりとなったのが鰻であり、

色は黒の水中生物であり、まさに水質を

補うのにふさわしかったのである。

(加えて栄養的にも腎気を補える)

 

鰻は丑のウに通じ、ウナギがなければ

うどん、梅、ウリなどウの付くものを

食べれば水剋火の理で暑気あたりしないとされた。

またこの日(未月丑日)に海や川などで

水浴する風習も生まれたのである。

 

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未は木性と風雷の死する所

 

 

土性には元々両義性があり

萬物を生みだす母なる星

(人間でいえば女性に相当)としての

土性の役割と同時に

萬物が枯死した後、土に還り

それを分解し、また春に再生させるという

生死の門の役割を所有する。

 

特に木局の終わり、木性の墓である未には

万物を安らかに葬る墓の意味合いが強いのである。

 

農耕民族においては

未は稲の神の死する所であり

サノボリといって、現代では田植えが終わった際の

祭りと解釈されているが、本来は

木局の終わりである未月に

稲の神の死を見送る行事なのである。

 

サノボリとは稲の神(サノカミ)が

天上に帰られる日、という意味がある。

 

 

また宮沢賢治の風の又三郎は

新潟県や東北に広く伝承する

風の三郎という風神の事であるが、

これも三合木局の三番目である未月のことであり、

風の三郎、よそ吹いてたもれ、

と子どもが謡い囃すことで

木気をあの世に送り、五行を循環させようとする意味がある。

 

※木気の象意には風や雷がある。

風神、雷神は木性象徴で、

雷神である建御雷も本質は木性神である。

 

新潟や福島の地方では

旧暦六月二十七日に風の三郎の祭りをし、

早朝に村の入り口に吹き飛ばされそうな

小屋を建て、通行人がこれを打ち壊して

風に吹き飛ばされたことにし、

風神に村をよけて通ってもらう事を祈る。

 

 

新潟に住んだことのある人は分かると思うが、

今でもとんでもない強風が吹き

家の外に出れない、といった事が

日常で起こるが、こうした巽の害、

あるいは台風による稲の被害を避けるためにも

風の三郎(本来は風の死する未の象形化)

という風習が残るのである。

 

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仏法では上下、日月、

四方、四維を守護する天衆を

十二天とする。

 

即ち上は梵天、下は地天、日は日天、月は月天、

東は帝釈天、南は閻魔天、西は水天、北は毘沙門天、

東南は火天、西南は羅刹天、西北は風天、

東北は大自在天で、

総称して十二天という。

 

うち東南、巽の方角を守護するのが

火天(クワテン)であるが、

火天は体の色は深い赤の火色、

身体の中央には炎を象徴する三角印があり

青い羊に乗っているという。

 

青い羊は明確に木気を象徴する色であり、

また未である以上、木気の最後であり、

火性を相生する母なのである。

即ち青羊に乗る火天とは

まさに燃料の上に乗った永遠の火神なのである。

 

火天は仏道において

胎蔵界曼荼羅の第十二外金剛院の一衆だが、

仏教の諸仏の中にも陰陽五行の引用が

多数見られることは興味深い。

 

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祇園祭と牛頭天王

 

 

春夏秋冬、四季の推移において、

夏から秋への推移だけが

火剋金となり、相剋関係である。

 

それで季夏の終わりの土旺を

強調することは、火生土、土生金と

季節循環をスムーズにするために

必要な事であり、未月は特に

土性月の中でも重要な通関神の役割なのである。

その為、旧暦六月、

今の七月には土性の祭りが多く開催される。

 

 

かつての首都、京都では旧暦六月、

現代では7月になると祇園祭が盛大に開催される。

京都祇園祭の主神は牛頭天王であるが、

牛頭天王は丑に通ずる土気の神であり

その神紋(五弁は土数)も易により土気を象徴している。

今ではなぜ牛頭であるのか、またその神紋の意味も

五行的知見が無いため誰も判別できない。

 

明治期には牛頭天王は素戔嗚尊と同一視されたが、

アマテラスが本来木神→天神なのに対して、

スサノオは本来金神→地神なのであり、

土性象徴の牛頭天王とはかけ離れており

この点では易の理論上は的外れな習合である。

 

 

元々牛頭天王は仏教の聖地(天竺五山のひとつ)である

祇園精舎の守護神であり、祇園神ともいわれるが、

インドでは牛頭天王が信仰された形跡はなく、

中国や朝鮮半島でも信仰形跡がなく、出自が謎で、

日本独自の神と解釈されている。

 

日本では平安時代から信仰されているが

その出自は天竺北方の豊饒国としか残されていない。

さらにインド北方には一切の痕跡が無いため、

牛頭の出自の豊饒国そのものが日本であり、

日本で創作された神の可能性が高いという。

 

牛頭天王は牛の頭に赤い二本の角を持ち、

その恐ろしい形相から妻が見つからず、

山鳩に導かれて妻を娶りにいく道中、

弟の古旦からも無碍に扱われるが、貧しい兄の

蘇民将来だけは宿を貸し粟飯で歓待した為、

牛頭天王は兄に深く感謝し

何でも願い事の叶う牛玉を授けた。

蘇民将来はそれで後に富貴の人となる。

 

妻を娶り豊饒国へ帰る途中、

弟の古旦の一族を復讐で殺す一方、

その妻だけは蘇民将来の娘であったために

助命し、茅の輪を作り赤絹の房を下げ、

蘇民将来の子孫であるという護符を付ければ、

末代までも災難を逃れることが出来ると

除災の法を教示したという。

 

やがて牛頭天王信仰は八坂神社の

祇園祭で盛大に行われるようになり、

特に疫病を司る無病息災の神として平安末期から

信仰が拡大していった。

 

また織田信長の信仰が厚かったために

牛頭天王を主神として信長の焼き討ちを

逃れる神社も多かったという。


(本来神仏への信仰心が薄かった信長が

午月戊寅の宿命であったことを考えると

土神の牛頭天王と自分を重ね合わせ気に入ったのか、

幼少期の自分の境遇に似たものを感じたのか、

或いは案外信長は自分の宿命を

知っていたのかもしれない。)



陰陽五行の観点から言えば、牛頭の牛頭天王を

未月に祀ることは、鰻と同様に、

未に丑を対冲でぶつけ、強烈な土性の禍を

和らげる意図が感じられる。


おそらくその為に奈良~平安時代の日本で

古事記を元に創作された神ではないか、

それ故に海外に一切の痕跡がなく、

また時代背景的に仏教色と陰陽五行説と日本神話が

混交しているように思われるのである。

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祇園祭の主催である八坂神社は

かつて神仏習合で比叡山に属し、祇園社と呼ばれ、

周囲の地名も祇園と呼ばれるようになった。

 

主神の牛頭天王はもともと武塔天神だったとも、

朝鮮半島で信仰されたスサノオのことだとも、

あるいは三皇五帝の神農のことだという説もある。

(神農であれば土神である根拠にはなるのだが)

 

いずれにせよ着目すべきは

五行論では未丑の対冲を活かした五行呪術

であると同時に、大乗仏教的要素が

神道や陰陽道に習合されることは

民生を救う、という庶民救済色が強まることである。

唐を席巻した仏教は奈良~平安時代に日本に

流入し、民衆の心の支えとして機能していった。

 

 

祇園祭はもともと祇園御霊会といい

疫病の死者への鎮魂祭がその発端であるが、

後に明治維新で神仏分離が強制され

仏教色を排除するために祇園祭と改められた。

が、祇園という地名自体がそもそも仏教由来である。

 

この祭りが旧暦未月に、

貞観から1000年以上も続く理論的背景には

土気の神である牛頭天王を主神として

盛大に祀ることによって五行循環を相生に戻し、

あるいは未月の土旺を和らげ、

夏時の病禍を防ごうという意図がある。

 

祇園御霊会の始まりは

863年の疫病の大流行、864年の富士山噴火、

869年の貞観地震による津波被害など

各地で天変地異が相次ぎ

また赤痢、マラリア、インフルエンザ、

天然痘などが大流行してしまった時代である。

 

特に内陸の湿地帯である京都では

夏場に食べ物が腐りやすく、

土病である梅雨時の胃腸病や感染症が

流行しやすい状態があった。

 

加えて昨今のアフリカや古代ヨーロッパと同様に

下水道処理がされておらず

不衛生で病原菌や伝染病が市中に溢れていたことが

科学的な原因ではある。

 

 

しかしこの時代、疫病大流行の原因は

疫神や怨霊の祟りであると考えられ、

これを鎮めるために

869年に卜部日吉麿が国の数である66本の

大鉾(長さ6メートル)を建て、

牛頭天王を神輿に祀って、祇園御霊会を開始した。

 

この鉾は山鉾となって

今では神輿の形で継承されているのである。

やがて祇園祭は神事としてよりも

民間の祭りとしての性格が強まり

庶民に愛される夏の風物詩となった。

 

 

 

2019年には八坂祇園祭は1150周年を迎え

今に至るまで明治時代のコレラの大流行や

直近ではコロナ禍など、

何度かの中止や自粛を挟みながらも

継承され続けてきている。

 

しかし他の各地の祭り同様に

本来的な五行(四季)循環の願いという

祀りの主目的はやはり忘れ去られていくようである。