もうすぐ梅雨入りするそうで、
また季節が移っていくんだな と思いながら久々の更新です。
新しいご縁に恵まれて、この1年くらいでたくさんの方と出会いました。
自分のことを話すときは木蘭拳のことをお話しすることになるのですが、
「見てみたいです。」とだいたいの方がおっしゃってくださいます。
わたしの中では大きく分けて型が3通りあります。
①稽古や講座の中で型のカタチや順序をお伝えするための型。
②自分ひとりの稽古で黙々と修行のように繰り返す型。
③これが木蘭拳です、と言ってみていただく私の型。
やっていることは同じ木蘭拳簡化一路二十四式ですが、
自分にとっては全然違うように感じるのです。
いつの頃からか思い出せないのですけど、
③これが木蘭拳です、と言ってみていただく私の型
ができなくなっていました。
ひどい時なんかは「いつでもやりますよ。」と言っておきながら
いざやろうとしたら「できません。」と言ってその場に崩れ落ちたこともあります。
その理由として
まずひとつは表現の問題です。
何かを意図的に表現するパフォーマンスではない、という思いの中での葛藤。
作為で以って型の動きを「どう見せようか。」とはしたくない、ということと
でも、人前でやる以上は表現である、ということとの間を行ったり来たり…。
わたしはクラシックバレエの経験年数が長いからか、
作為から抜け出そうとして思考に偏ることが多いです。
癖みたいなものが残っているんですね。
その癖みたいなものが表れてしまうことが単純に恥ずかしい。
そして恐い。
ふたつめは 丸ハダカ感です。
みていただくということは、これが「わたしの」木蘭拳です、
ということにならざるをえない。
型をなぞるわたしのからだを曝すということです。
これは一糸まとわず人前に立っているのと同じ!という感覚に襲われます。
これは大変恥ずかしい。
そしてやっぱり恐い。
このふたつのことからくる恥ずかしさと恐さをぶら下げたままの型をみていただくことは
とてもできなかった。
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今日、プロフィール欄を更新してそこに木蘭拳のことを書いたのが以下です。
わたしたちはこの美しい型の中に「道(タオ)」の精神を融合させることで、禅的修行を倣った精神修養を求めることができます。足の裏を感じ呼吸と丹田に意識を向け、からだの中心から意識を広げ、動禅とも言われるこの型の中に自身を流してゆく。わずか4分半の型の中でそのように存在することをとおして、生きながら森羅万象の創造主に帰する経験を味わうことが許されるのです。
これは
②自分ひとりの稽古で黙々と修行のように繰り返す型
のときに経験できる可能性が高いものです。
ところが、
型のむこうに人がいるとき
若輩のわたしはぶら下がるものに振り回されて、
この経験を放棄することになります。
闘わずに棄権 という感じです。
これはこれで、わたしにとっては辛い体験でもあります。
変化の時機がやってきてくれました。
先週、機会をいただいてある方のコンサートを聴かせていただきました。
コンサートの後の夕食会で、その方はもう一度
演奏と歌を聴かせてくださいました。
ライアーという楽器でわたしの大好きな映画の主題歌を一曲、
その中で歌われた言葉の音を聴いた感動が
わたしの木蘭拳を変えてくれるきっかけになりました。
「生きている不思議 死んでいく不思議
花も風も街もみんな同じ」
映画「千と千尋の神隠し」 いつも何度でも
作詞/覚 和歌子 作曲/木村 弓
参考URL
http://homepage3.nifty.com/RuiRuka/Prv/Midi/Itumo/ItumoText.htm
より
コンサートの次の日から毎日
その日の中で納得がいく型が見つかるまで
稽古を繰り返しました。
型のむこうに人がいることは
わたしにとって今でもこれからも、きっと試練です。
でも、その試練が摩擦となって
わたしの中に眠っている何かを呼び覚ましてくれる!
そう信じて稽古を繰り返すうちに、
今日はじめて経験したことがありました。
型の中に自分自身が流れていったのです。
この数日の稽古の中で、
4分半の型をとおして、一生涯で体験するだろう多くの感覚を味わうことがありました。
喜びや勇気 失敗への後悔や 言いようのない幸福感
人としてのどうしようもなさ
これらのことを型の中で感じるとき、
まるで一生を一度生ききったように感じることがありました。
からだもとても体力を使い疲れます。
でも、今日はそれらのことを含めながらも
型の中に自分自身が流れていったのです。
こうなった以上
わたしの型をみてもらいたい人がいます。
まだ恐さも恥ずかしさもあるけれど、
それでも
そこを含めても
ぶら下がるものがあっても
わたしの型のむこうに いてもらいたい、
そんな人が何人も思い浮かびます。
今日はとっても長くなりました。
読んでいただき
ありがとうございます。
(瀬古多美子先生、読んでくださいましたでしょうか。
永遠の感謝と敬意を込めて
瀬古久義先生にこの記事を捧げます。)