「柚梨、柚梨っ!?大丈夫かっ、しっかりするんだ!!」
・・・それは誰でもない、神楽坂桐結だった。
(!!)
桐結の登場はまったくすぎるほど予想外の筈で、やっぱりどうしてこんなことになったのか分からない頭は混乱を始める。
痛みと虚脱感に動かせない体を動かしたい。早く。

『泣きそうな、苦しさをも―』

―どうして桐結がここにいるの。
どうしてここに桐結が、それはありえない桐結が、
桐結が
(だめっ、苦しんでちゃだめだ、痛んでちゃだめだ、暗そうな顔してちゃだめだとにかく笑ってなくちゃっ、桐結の前では笑ってなくちゃ笑って)

―笑ってっ!!

桐結はわたしにとっての大きな大きな強迫観念だった。
わたしは、桐結を苦しませてはいけないんだ。
・・・わたしは、精一杯笑ったつもりだった。けれど上手に笑えていたんだろうか。
かなり無理強いをして笑った・・・筈だったけれど、
少しだけ、桐結がここにいて嬉しいと思えたことも確かなんだ。


雨はぽつりぽつりと降り続けている。
わたしの意識が、またどんどんと遠ざかっていく。
桐結の顔が、もう、見えない。




「ねえ、桐結・・・」
そして話は今に至る。
「あのお、えっと」
成す術もなく、玖高柚梨は神楽坂桐結に背中を預けたままだった。それがとても、たまらなく居心地が悪かった。
「その、ねえ」
いくら慣れというモノが存在しようと、こればかりはどうしようもなく居心地が悪い。
柚梨はこのはっきりと桐結に物を言えない口を呪いつつ、覚悟を決めて一息に言った。
(別にダメだとは言わないけれど、いや、あながち迷惑ってわけじゃないんだけれどさあ、って何を言おうとしてるの私はっ!)

「テレビを見る時ぐらい、離れて、くれないかなあ・・・?」

だが柚梨の願いは、とても小さかったのか桐結に聞き届けられることはなかった。いや、無視されたとも言えなくはない。
・・・これを、どうしてくれよう。離れるどころか、逆に腕を回されてしまった。肩に腕の温かさを、眼の前に少し骨ばった手の存在を感じる。今度こそ文字通り身動きがとれない。

紺色の夜が今日も世界を覆い、その空の下、ある街外れにあるけして広くはない質素な居住空間、そこの殺風景な居間に設けられたテレビから流れてくる陽気な笑い声に耳を傾けながら。
柚梨はその笑い声に便乗して笑うにも笑えず、その前に動くにも動けず。
「・・・離れてぇ~っ・・・」
桐結のなすがままに、しっかりと抱きすくめられていた。首筋に桐結の息づかいを強く強く感じる。さらさらとした髪もくすぐったい。もう笑い声どころじゃない。あまり上手く物事を順序だてて考える事が難しくなってきたが、とにもかくにもやばい。この激しすぎる動揺が、伝わってしまう。
桐結は何も語らず、ただ黙しているだけだ。うんともすんとも言わないが、眠ってはいない。むしろ穏やかに呼吸しながら、目を閉じて平穏な時を過ごしているのだろう。・・・私の平穏は何処かに置き去りだ。でも、桐結が穏やかならばそれでもいいと思ってしまうのは、甘えなのだろうか。それではいけないと、何度も何度も思った筈なのに。



これが、二人の手にした平穏な日常だった。