あの日そっと、躊躇うように触れられた指先の感触を、


僕はまどろみながら、


知っていた。


二つ年の離れた姉ミチルの彼氏の名前は聞くたびに違っていた。


それは今に始まったことじゃない。


昔から、そう、僕が高校生になる頃既に、


姉のその途切れることを知らない男付き合いの様子は、近所でも有名になっていた。


今日もまた、夕食の家族団欒の中で僕の中を衝動が駆け巡る。


その衝動の名前は、


嫉妬だ。


「道流。そういえばまた彼氏変わったんだって?お隣の佐藤さんがわざわざ教えてくれたわよ。


この前も男の子と一緒に歩いてるのを見たけど、その時と全然違う人だったって」


母は井戸端会議が好きな情報通で、姉についての情報をこうやってたまに僕に流してくれる。


姉にまるで突きつけるように話す母だけど、本当はいつもご近所コミュニティーで姉を話題にすることが楽しみなんだってことを、僕は知っている。


そして僕がそんな話を聞くたびにいつも気が狂いそうになっているのを、母は知らない。


「前の彼氏って古賀くんだっけ?それとも水野くん?」


母の追い打ちに、姉はころころと明るい口調で返した。


「古賀君は三人前よ。水野君は二人前。前のコは結城君だよ」


「・・・お母さん、そろそろ付いていけなくなってきたわ。あんたの彼氏の名前追うの」


「んふふふふっ、てことはそろそろお母さんの情報通伝説も崩れるかしらね?」


「なめるんじゃないよ、あたしゃ何処までも追いかけてやるんだから」


耳を塞げるなら、塞ぎたいと思う。あと一秒だって、聞きたくはない。


けれどもこんな風に姉と母の会話が始まってしまうと、それまで滞りなく進んでいた食事が喉を通らなくなる。完食しなければ、僕はここを離れられない。


ぐつぐつと身体の中心で嫉妬の炎を燃やしながら、必死に食事を終わらせようと躍起なのだ。


耳を塞げばきっと、悟られてしまう。


両親に、そして姉にも。


だから一番、母の話の始まりが全身に突き刺さっているのは、僕だったりするのである。



「母さん・・・道流もはしたないんだとは思うけど、母さんもすごくはしたないと思うよ」


「あらどうしてよ、お父さん。あたしゃこれが毎日の生き甲斐なのよ」


「娘の男事情を追いかけることが生き甲斐って、かなり変わってると思うけどね、あたしは」


父は姉のことについては完全に傍観の立場をとっている。


母のように敢えて自分から話題にしたり、はしたないと言って諭したり詰ったりはしないけど、姉がそのことで悩んだり苦しんだりしても、けして手を差し伸べはしないだろう。父はそれも一種の「娘の成長」だと捉えているらしいから。


僕はたまにそんな父が頼もしく、そして羨ましくも思えてしまう。


親と子の間柄だからこそ傍観の立場でいられるのだろうかと思うと、父になりたいとすら僕は願う。


姉と弟では相手の男の話をされる度に嫉妬してしまうのだ。


ただ姉を見ず知らずの他人の男に奪われるのが嫌な駄々をこねる子供のような嫉妬だったらよかったのに、


どうやら僕のこれはその域を超えているようだった。


それが何度も何度も、


ひっきりなしに僕を襲う。


まさに生き地獄だった。


「・・・ああそういえば道流、佐藤さんこんな話もしてたんだけどねぇ、道流の彼氏ってみんな」


「ごちそうさま」


会話の間に強引に割り込んで、僕は席を立つ。食器を素早くまとめて手に持った。三人の会話を必死に聞き流して、やっと完食というゴールに辿り着いたのだ。早くここから離れたい。


視線を下げると姉がすぐ目の前にいるから、とにかく姉を視界に入れないように注意して台所に急ぐ。


「翔、もう終わりなの?この頃食欲無いんじゃない?」


「母さん、俺いつもこんな感じだよ。気のせいじゃない?」


食器を軽く洗いながら、背中に降ってくる母の声も難なくかわす。本当は最近なんてレベルじゃない。ここ何年か僕の食欲は下がる一方だった。


姉への気持ちを知ってから、僕は家族みんなでとる食事を正常にこなしたことはない。自分の部屋で一人間食をすることが基本になっていた。


僕は居間の脇の二階に通じる階段へと脇目も振らずに歩く。


台所から振り返ってすぐが第一関門。


ここで姉を視界に入れるとアウト。


姉は居間と通路を分ける襖の目の前に座っている。


これはなんとかクリア。


姉の後ろを通り過ぎるのが第二関門。

姉の周りでふわふわと漂っている微かな香水の香りが、


僕の全細胞を絡め取ろうと躍起になる。


ここは一瞬息を止めて、クリア。


ほっと息を吐き出して襖を開け、


「翔、ご飯食べるのいっつも早いよねえ。もしかしてこそこそと彼女に連絡とか?」


まさかの第三関門。


姉に声をかけられるなんて。


「いない」


反射的に振り返って、一瞬姉と目が合った。


心臓の鼓動が高まる。


全身の血が沸騰して、体中が熱くなった。

久しぶりに見る美しい姉の姿にいつもすぐ僕は意識を奪われるから、


慌てて視線を下げる。



思ったよりも大きくて硬い震えた声が出た。


何か怪しまれてしまうかもしれない。


「いないよ、俺には出来そうにない。だってモテないから」


出来るだけ普通に話しかけようと思って、


失敗した。


二言目は見事に上擦った。


恥ずかしくてもっと熱くなる。


早くここを離れなければ。


僕は姉の返答を待たずに、


居間を出て階段を駆け上がる。


きっと不自然に見えただろうな。


でも今更どうしようもない。


姉の前で僕は、


僕を偽ることができないのだから。