久しぶりに映画を見たというと嘘になるが、久しぶりに見応えのある映画を見たというところだろうか。
映画のタイトルは「空海」という。
1984年公開。
佐藤純彌監督で、空海役は北大路欣也が演じている。
来年2018年にも空海という映画を公開するみたいだけど、原作が僕の大好きな小説「神々の山嶺」の著者「夢枕獏」という点と、制作費に150億円もの巨額を突っ込んでるという点から少し気になる。今のご時世で150億突っ込んだらいったいどんな映画が撮れるのだろうか。
ところで何で最近の映画はチープに感じてしまうのか。
もちろん昔に作った作品が全て優れている訳ではなく、もちろんつまらない作品はたくさんあると思う。が、この手の気合入ってる超大作は今の時代では作れないんじゃないかと思わず唸ってしままうような、時代の流れによる風化をもろともしない燦然と輝く何か光のようなものを感じる。
例えば、カルト映画の巨匠と言われたチリの映画監督、アレハンドロ・ホドロフスキーという監督がいる。
彼は1969年にエル・トポという伝説の映画を公開して、ジョン・レノンやミック・ジャガー、アンディー・ウォーホールを始め多くの当時世界最強クラスのアーティスト達の度肝を抜いた。
ジョンレノンに至っては4度も劇場に通い、遂にはこの映画の興行権まで買ってしまったという熱の入れようだ。
次に74年にはホーリー・マウンテン、89年にはサンタ・サングレという映画を発表し、以上の3作品をもってカルト3部作と呼ばれ、今でも映画マニアの中では伝説のカルト映画として崇められているし、未だにちょっと癖のある若者の心を鷲掴みにし続けている。
この監督、凄い事に今でも生きていて今年で88歳。そろそろ最新作を発表する。
未だ燃え尽きぬバイタリティーには畏怖の念すら覚える。
しかしホドロフスキー監督、2013年にもリアリティのダンスという映画を発表し、カルト映画好きの僕は嬉々として映画館に足を運び映画を鑑賞したが、残念な事に全く面白くなかった。
同じ監督の作品なのに何故こうまで輝きを失ってしまったのか。
老いがそうさせたのか。
それもあるかもしれないが、いや、違う。
時代が変わってしまったとしか言いようがない。
カルト3部作と呼ばれた映画には、まるで魔法でもかけられたかのような不思議な空気感に溢れている。
この空気が今の発達しすぎた撮影技術や撮影機材や編集やらなんやらでは出せないのじゃないだろうか。
どうも綺麗になり過ぎてしまう。
今回見た「空海」でも全く同じ輝きを感じた。
まずは製作側の気合の入り方が全く違う。
一切妥協いたしませんという監督のこだわりが見てる側にビシバシと伝わってくる。
これは見てる側も自然と背筋が伸びる。
映画を見ながら何か他の事に気が散るなんて事がない。
これこそ正に映画という娯楽を骨の髄まで味わっている状態だと思う。
では何故最近の映画は安っちく感じてしまうのか。
理由としてはCGの出現は大きい。
結局CGの技術はそれはそれで凄いけど、やはりリアリティーが薄れてしまう。
僕らが映画に求める根本的なところは実はもっと単純で、純粋に僕らには到底作る事、表現出来ない凄いものを見たいという欲求がまずあると思う。
それがどんな凄い映像でもCGで作ったものだと、だってCGでしょ?と斜に構えてしまう。
昔の映画は、これ、一体どうやって撮ったのだろうという謎が一種のロマンだったのではないかな。
だからスターウォーズをその当時映画館で見た人達は、巨大なスクリーンの前で震えた訳だし、2001年宇宙の旅を超えるSF映画が未だに作れないのだ。
しかし、何が何でもCGが悪という事は全くなく、インターステラーでは見たことも無い映像体験が出来たし、他にもCGを駆使した圧倒的な映像美も中にはあるので、頭ごなしにCGを否定してはいけませんね。
でもこれ絵にも言える事で、やはり手描きとパソコンではなーんか違う。パソコンだと整い過ぎてて味が薄口に仕上がってしまう気がする。
やはりどんな手間暇かかろうと手描きがいいのだ。
執念とも言える点々地獄をオミマイシタイノダ
と言いたいところだけど、今日はこれからここで仕事だ。
って言うと一体なんて都会的な所で仕事するんだと思うかもしれないけど、なーに、大した事ない。

