所澤神明社・所沢市
⭐︎武蔵国の伊勢神宮
主祭神…天照大御神・倉稲魂大神・大物主大神
創建…不詳。日本武尊が東国平定の折にこの村で休憩した際、天照大御神に戦勝祈願されたのが、創祀と伝えられています。
拝殿…昭和9年に県下随一の大きさの総檜づくりの拝殿を竣工。
社殿…明治35年(1902年)竣工。
ご神木…大欅。樹齢1000年ともいわれる巨木。
所沢は古くから人形や羽子板などの製造・産業が盛んな「人形の街」なので、愛用された人形に感謝する人形供養が行われているそうです。
江戸時代(天保・嘉永期・1830~1840年)に農業の傍らで行われた副業が始まりだそうです。
御朱印をいただいてきました。
「野老澤」とは「ところさわ」。室町時代の文献にも登場する、「所沢」の古い呼び名だそうです。
大淵寺(だいえんじ)・秩父市
⭐︎秩父三十四観音霊場第二十七番
山号…竜河山
宗派…曹洞宗
ご本尊…聖観世音菩薩
創建…不詳。口伝によれば、「豊明というお坊さんがこの地に来た時に、足の病気になり、うごけなくなった。そこへ秩父に教えを広めにやってきた弘法大師が、観音像を刻んで与え、そのお坊さんが熱心にこれを拝むと足の病気が治った。」その後、観音像をご本尊として祀ったのが創始だそうです。平安時代初期のことだそうです。
お寺のすぐ前には秩父鉄道の線路があります。
大正8年(1919年)、秩父鉄道の蒸気機関車から排出される火の粉が飛んだため当寺は全焼したそうです。焼けてしまった当初の観音堂「月影堂」は再建されず、再建された本堂に、無事だった観音像を安置したそうです。現在ある月影堂は平成8年(1996年)に再建され観音像も移されたそうです。
久昌寺・秩父市
⭐︎秩父三十四観音霊場第ニ十五番
山号…岩谷山
宗派…曹洞宗
ご本尊…聖観世音菩薩
創建…不詳 この寺を開設したとされる性空が、閻魔大王より石性の手判を授かり、奉納したという話が伝わっている。その逸話から「御手判寺」と呼ばれているそうです。御詠歌
石の御手判…今から約760年前、13人の尊者が秩父路の聖地を巡礼されました。その折ここにまいりますと、25人の菩薩が喜び迎え入れました。尊者たちは25菩薩にちなんで、二十五番目の札所ときめられ、その上に、尊者のひとり性空上人(地蔵様の化身)は、前に冥途にゆかれて、多くの罪人達を救ってあげたことがありますが、その時に閻魔大王よりお礼にいただいたこの「石の御手判」を当寺に納め、巡礼により与えるように伝えられたそうです。これは日本百ヶ所札所の中でここだけただ一つの貴いものだそうです。
音楽堂・秩父市
⭐︎秩父三十四観音霊場第ニ十三番
山号…松風山
宗派…臨済宗
ご本尊…聖観世音菩薩
創建…天長年間(824年~834年・奈良時代)慈覚大師(円仁)が巡錫(じんしゃく)した際、聖観世音像を刻んで観音堂に安置した。秩父札所を開創したとされる「十三権者」がこの地で松風のおとをきき、あたかも菩薩の奏でる音楽のように聞こえたことから「音楽寺」と名付けたそうです。
観音堂…宝永29年(1422年・室町時代)に創建。現在の建物は正徳年間(1711年~1716年)に建立されたそうです。昭和59年(1984年)茅葺入母屋造から銅板葺宝形造に大改修。
小鹿坂峠の中腹に観音堂があるので、前庭から秩父市街が一望できます。
一本の枝が数メートル延びている松は「御影松」です。
梵鐘…明和5年(1768年・江戸時代)に作られた銅鐘には六観音像が鋳出されています。鐘はつくことができます。
明治17年(1884年)、秩父の農民たちが高利貸・明治政府の悪政を批判し、借金の据え置きや減税を求めて、武装蜂起した「秩父事件」発生時、音楽寺境内に集結し、梵鐘を乱打し、秩父市内に乱入したそうです。
奉納額…室町時代、幕府の管領だった畠山家の家来・内田源蔵が出陣の時に母から「音楽寺」の観音様の御影を渡された場面で、そのおかげで戦に勝利したそうです。
御詠歌
本堂にはピアノが置いてありました。
ご神木…樹齢450年以上のイチイの木
観音堂にはたくさんの釘後や千社札が張られていますが、何を思ったかお願いごとの落書きもありました。
江戸時代の建物に字を書ける勇気はどこから来るのやら・・・
栄福寺(童子堂)・秩父市
⭐︎秩父三十四観音霊場第ニ十ニ番
山門…2025年まで茅葺屋根でしたが、綺麗に改修されていました。童子仁王像が安置されています。
山号…西陽山と華台山の両方あるそうです。
宗派…真言宗
ご本尊…聖観世音菩薩(弘法大師作伝)
創建…大同2年(807年・平安時代)淳和天皇の弟にあたる伊予親王の菩提をともらうために、遍正僧正がこの領主に堂宇を建立させたのがこの寺の草創だそうです。
童子堂・観音堂…昔、子供たちの間で天然痘が流行した際に観音様へ祈願し、岩間から湧き出る清水で病が治まったことから「童子堂」と呼ばれるようになったそうです。
当所は約1km離れた府坂峠の山中にあったそうですが、明治43年(1910年)に現在地へ移され栄福寺の管理となったそうです。
江戸中期の建立。正面の唐戸に風神雷神、迦陵頻伽の浮彫りがあります。
霊験記…讃岐国の欲深い人が旅僧が一食の布施を願ったら与えず罵った。するとこの人の息子が犬の姿に変わった。びっくりしたが許してもらえずこの子を連れて西国、坂東、秩父を巡礼をしてここまで来たら元の姿になったそうです。
山門の茅をいただてきました。
御詠歌
観音寺・秩父市
⭐︎秩父三十四観音霊場第ニ十一番
山号…要光山
宗派…真言宗
ご本尊…聖観世音菩薩(火伏観音)
創建…不詳
本堂…観音堂は大正12年(1923年)の火災で焼失しましたが、その後小鹿野町の廃寺の廃材を活用して再建したそうです。火災の時奇跡的にも本尊「火伏観音」を救出できたそうです。
御詠歌にも詠われるように、「矢乃堂」とも言われるそうです。行基菩薩がこの地を訪れ、八幡宮の社地に聖観音像を祀ろうとしたところ、悪鬼たちがこれを邪魔をした。この時八幡神が現れ神矢を放って悪鬼を追い払ったという機縁があるそうです。
御詠歌
御朱印の真ん中上の梵字で観音菩薩です。
仏様ごとに真言(文字・言葉)があります。
空海は、真言について「真言は、不思議なもので、本尊を観想しながら唱えれば無知の闇が除かれる。わずか一字の中に千理を含む。この身のままで真理を悟ることができる。」と記してるそうです。
武甲山がとてもきれいです。標高1304m。
北側の山肌が石灰岩の採掘により階段状に削られた山容です。
武甲山の石灰岩は日本屈指の良質な鉱床で、明治期よりセメントの原料として採掘が始まるも、秩父を護る山として、大正期まで本格的に開発はされなかったそうです。
昭和15年(1940年)に秩父石灰工業が操業して以来、石灰岩採掘により山容の変化が大きく、旧山頂にあった縄文時代から近代までの歴史のあった信仰遺跡、巨岩群も消滅したそうです。現在も太平洋セメント系列の会社と武甲鉱業が共同で採掘しているそうです。
成り立ちは、南方(ハワイの方)にあった火山島が活動を終え、浸食によって削られサンゴ礁を纏うようになる。サンゴによってできた石灰岩を載せた海山は、プレートの動きにより北上し、深い海溝に引きづりこまれた。そして、大陸プレートに押し付けられ剥がれ落ち、やがて隆起し浸食されることで地表に現れた山が武甲山だそうです。
岩之上堂・秩父市
⭐︎秩父三十四観音霊場第ニ十番
観音堂…秩父札所の中で最も古い建物。江戸初期の造営。本堂の中は、天上からとても綺麗な「瓔珞(ようらく)」が吊るし飾られています。瓔珞は、仏像の首や胸にかける飾り物で、秩父札所では道内の装飾に用いられているそうです。
この岩之上堂は地元の旧家・内田家が個人で所有するお堂だそうです。
11世紀末に建立されたお寺が1569年・室町時代)に焼失したそうで、その後衰退。内田氏が私財を投げ打って、1678年(江戸時代)から25年を要して観音堂を建立したそうです。
元禄年間(1688年~1703年・江戸時代)に内部の補修。宝永年間(1704年~1710年・江戸時代)に彫刻の補修が行われたそうです。
元禄16年(1703年・江戸時代)から内田家が堂主となっているそうです。現在も所属宗派は臨済宗南禅寺派ですが、僧侶ではない内田家(17代目)が管理しているそうです。
山号…法王山
宗派…臨済宗
ご本尊…聖観世音菩薩(平安時代作伝)
創建…不詳。応仁年間(1467年~1469年・室町時代)には、すでに寺運が衰退し、堂宇も荒廃して、ただ本尊の聖観世音菩薩のみ岩の上でむき出しにして安置されていたそうです。
かつての巡礼者は荒川を渡し舟で渡り、観音堂前の大覗岩の下にあった奥の院から石段を登って観音堂に向かったそうです。
現在は山の上から階段を下りてお参りします。
荒川西岸の崖の上に観音堂が立っています。
ヤブランが群生していました。
秋海棠
御詠歌
龍石寺・秩父市
⭐︎秩父三十四観音霊場第十九番
山号…飛淵山
宗派…曹洞宗
ご本尊…千手観世音菩薩(室町時代作)
創建…不明
本堂…観音堂。大きな星形屋根に流れ向拝をつけた佇まい。昭和30年代、当時は無住となり、茅葺屋根が痛み存続の危機に陥った。そこで地元の人が立ち上がり浄財を募り、昭和47年解体修復されたそうです。そのとき、宝永2年(1705年・江戸時代)の墨書きが発見されたそうです。
「本堂の中を撮影できます」があったので撮ってきました。
薄暗い堂内には、閻魔像、十王象など冥途の恐怖を感じられます。そして、龍の絵も四方にありました。
昔、この地方に大旱魃(だいかんばつ)があり、弘法大師は天皇の勅に寄り飴を祈られたところ、この大盤石が二つに割れて、神泉苑より竜が焦点し、雲を呼びたちまち雨が降り村人を救ったそうです。この感謝のために村人は堂宇を建立して千手観音像を安置したそうです。
周囲より高く露出した砂岩の上に観音堂が立っています。かつてこの一帯は古秩父湾と呼ばれる海だったそうです。約1500万年前に上昇した外秩父山地(東に3km離れている)が隆起し、大量の土砂が流れ込んできました。その後、海中で新たな堆積物に覆われ固くなったそうです。数万年前、荒川が盆地の中を流れるようになると、周りの泥岩は荒川に削られ、堅いの角礫質砂岩(かくれきしつさがん)は削り残されて、突出した高まりになったそうです。ここがかつて河底で、境内の岩には川の浸食によってつくられたしイサナポットホール(甌穴)があり、激流が岩を洗っていたことがわかるそうです。
歌川国貞が描いた、寺の由来ご利益が描かれている錦絵。
江戸時代末期に描かれた龍石寺の錦絵。上は歌川広重、下は歌川国貞。
御詠歌






























































































