その3、内海を横断する人々
 
 
 
日本列島の社会に対する外部からの影響として、従来は前節で述べたような西方との交流がもっぱら注目されていた。しかし地図を成心なく見れば、さきにあげたいくつかの″内海”、日本列島に関してはオホーツク海、日本海、東シナ海の海の道を通じての北方、あるいは南方との交流が、当然、問題にされなくてはならない。
まず北方との関係については、オホーツク海を通じて、縄文時代早期以前からアムール川(黒龍江)地域て関わりのある文化の北海道への流入がみられるといわれ、縄文晩期には大陸との関係を物語る遺跡が出現するのは、西方からの文化の流入と同様。大陸の社会の激動の波及と見られている。また、羅臼の近くの続縄文期の植別川遺跡から見い出され銀の製品は、大陸からの渡来者に副葬したものとされているが、さらに降って、八世紀から十三世紀にかけて、海を舞台として展開したとみられるオホーツク文化の涙が、何回かにわたって道東に流入し、続縄文文化の流れをくむ擦文文化と並存する。この文化の担い手は、サハリン、アムール川流域、南千島と関わりが深いといわれており、こうした北方からのオホーツク海を経由した文化の流れについては、今後、さらに追及される必要があろう。(藤本強「オホーツク海沿岸の文化」『海と列島文化1 日本海と北国文化』小学館、1990年)
また、日本海を横断する大陸と本州島日本海沿岸との交流も古くから活発であった。すでにくわしく追究されているように、六世紀から七世紀にかけて、高句麗との交流を伝える文献上の記事が少なからず見られるが、その来着地とされる加賀や能登の古墳には、高句麗からの技術の流入の影響をうかがうことができる、と指摘されている。
さらに八世紀から十世紀にかけて、渤海の便が日本海をこえて、北は出羽、西は出雲までの広い範囲にわたる本州の日本海沿岸各地に来着し、活発な交易が行われ、日本側からもその帰国を送る使者が、たびたび日本海を渡って大陸にいったことも、周知の通りである。その使者が最も顕著に来着した能登、加賀などの地域には、渤海との交流をうかがわせる寺家遺跡、三小牛山遺跡などが発掘されている(小嶋芳孝「高句麗・渤海との交流」前掲『日本海と北国文化』)。
こうした日本海を通じての文化の交流を追究している小嶋芳孝氏は、石川県小松市の額見町遺跡で発掘された七世紀前半のオンドルを備えた住居に注目し、これを含めて北九州など列島西部に見出されるオンドル遺構をはじめ朝鮮半島のオンドルと比較し、環日本海地域の生活文化の交流を追究している。一方、小嶋氏は十世紀以降の北海道南西部に、女真系の遺物が出土することから、「沿海州」との交流のあった事実を指摘しているが、日本海をこえる海の道も、このように根深い人と物の交流の舞台だったのである。
 
(53~55ページから抜粋)
 
 
従来は古代の大陸て日本列島とを結ぶルートについては、朝鮮半島から九州へと言うルートが、主に用いられていたと見なされていましたが、それ以外にも、北方のサハリン、プリモーリエ地域、アムール川流域、南クリル諸島との交流についでの可能性について、この部分では先人の研究をもとに指摘しています。
 
 
 
北東アジアの地図を改めて眺めれば分かりますが、サハリンとプリモーリエ地域は冬季に凍結すれば、たやすく渡ることが可能な距離であり。北海道とサハリン、北海道と南クリル諸島も、北海道とプリモーリエ地域も、小船で天気と季節を見計らえば渡航可能な海域です。
 
 
 
北海道からは,いくつかプリモーリエ地域に当時住んでいた女真人系の遺物が発掘されているといいますから、海上が凍結する冬季を中心に、人の行き来があったのは事実でしょう。
 
 
 
にわかに信じがたいのが、日本海を直接渡って来るルートです。このルートは歴史時代に入り、8世紀から約200年間に渡り、渤海使が列島へ渡航して来たルートに他なりません。こうしたルートから渡来したと考えられる高句麗系、あるいは渤海系と思われる人たちがいたことが伺えます。
 
 
 
「日本書紀」に記述された「烏羽の文」のエピソードといい、石川県小松市の額見町遺跡の7世紀前半のオンドル遺構などは、この地に大陸系の人たちが居住していたことを示しています。
 
 
 
また、八世紀始めから十世紀始めの約二百年間に渡り、頻繁に日本国へ渡って来た渤海使も、北は出羽から南は出雲に至る広い地域に到着しています。ただし、この渤海使の到着地は九世紀以降は、ほぼ加賀、能登、若狭、越前に限定されてきますが、これは渤海側が出航する港を南の不凍港に移動させたことと、航海技術の進歩が言われています。
 
 
 
現在の日本列島の家屋には、オンドルの施設を持つものはありません。日本列島の家屋は冬の寒さを犠牲にして、夏を快適に過ごせるような構造になっており、オンドルは日本列島に定着しなかったと思われます。従って、このオンドル遺跡約北九州にあるオンドルの遺跡は、おそらく渡来第一世代の建物の遺構か、何かの事情で日本列島に居住せざるを得なかった、大陸系の人の家屋なのでしょう。
 
 
 
古代の人々は、かくも自由に民族の壁を超えて海を行き来していたのです。