lully-moliele-1660さんのブログ-31j31VNH-oL.jpg

ざっとひと通り、読んで見ましたが、1570年代の織田政権が、家臣たちの不仲により以外と内部に対立の芽を含んいたことが記載されていました。


信長はいずれ、足利義昭から将軍職を簒奪して、第16代将軍に就任して安土幕府を開き、京都から公家を安土に住まわせて、天皇を行幸させて、安土遷都さえ考えていたようです。



その点で、信長を徹底的な伝統の破壊者と考える従来の説には再考の必要があります。若い頃の信長はある程度、朝廷の権威を利用していたこともありました。



さらに「本能寺の変」に関しては、四国の長宗我部氏と三好氏、からに中国の毛利氏の動向が複雑に関連していたようです。秀吉は、得意の情報網を張り巡らして、明智光秀の謀反を見越しており、また光秀とて、毛利ら上杉、長宗我部の決起を期待していたようです。



「中国大返し」にしても、光秀が信長を討ったら、必ず街道に飛脚が頻繁に通るであろうと読み、飛脚の通行数から反乱を予想したようです。



筆者の注目すべき論点は、豊臣政権はヨーロッパの絶対主義王制に対応する政権ではなかったかということです。



徳川幕府については、農本主義的、地方分権的性格をもった政権だと規定しています。私などは徳川幕府はアジア的専制政治の典型だと考えています。



そして文禄・慶長の朝鮮半島への出兵を通じて、海外での戦争を経験したことにより、兵士たちが異文化に接したことにより、初めて「日本人」意識が生まれたことです。



この意識は明治時代になって、再度息を吹き返します。そして大陸侵略の先覚者として再評価されていきます。



そう考えると、豊臣秀吉とは、日本史上でも極めて謎に満ちた人物であると言えます。