高原の晩夏の午後、絵を描く手を休めた<お前>と<私>が白樺の木陰で休憩していると、突然一陣の風が立ち、描きかけの絵が画架とともにパタリと倒れます。

そして<私>は呟きます・・・

  風立ちぬ、いざ生きめやも。

これが堀辰雄の小説『風立ちぬ』冒頭の象徴的なシーンであり、この言葉の残響がこの小説全体を覆っています。

 

 

あるいは、ジブリの同名映画でも、この言葉が象徴的に使われていましたね。
冒頭の列車のシーンで、風に飛ばされそうになった二郎の帽子を菜穂子が受け止め、


  “Le vent se lève”

とフランス語で発します。これを受けて二郎が

  “il faut tenter de vivre”

と返します。
これは「風立ちぬ、いざ生きめやも」に対応する、ポール・ヴァレリイの「海辺の墓地」という詩の一節なわけですが、いくらインテリの二人とはいえ、決してメジャーとはいえないこの詩の一節をフランス語で暗唱しているなんてありえねぇ!ちょっとあざと感もありますが、まあ時代設定上(まだ堀辰雄の小説が発表される前)こうせざるを得なかったのでしょう。
 



松田聖子が歌う『風立ちぬ』の松本隆の歌詞でも、冒頭の「今日から私は心の旅人」や「別れは一つの旅立ちだから」というフレーズからして、最愛の人の死(あるいは一つの恋愛の終焉でもいい)を乗り越えて生きていこうという意志を全面に押し出した歌詞になっています。

これら後発の作品において、やはり原作の「風立ちぬ、いざ生きめやも」が通奏低音になっていると言わざるを得ません。

が・・・実は、この「いざ生きめやも」という言葉にはいささか厄介な問題がありまして、それが「誤訳」問題といわれるものです。

 

 

■ヴァレリイの「海辺の墓地」

 



ポール・ヴァレリイ(Ambroise Paul Toussaint Jules Valéry, 1871~1945)が1920年に発表した「海辺の墓地」(Le Cimetière marin)は、25節、144行からなる長大な詩ですが、この最終節にこの語句が登場します。

  Le vent se lève ! … Il faut tenter de vivre !

そんなに複雑な語句じゃありません。試しにGoodle翻訳で英語に直してみると・・・

  The wind is rising ! … We must try to live !

「風が起こった・・・生きようと試みなければならない」という意味であることは明らかですね。

堀辰雄は、これをフランス語のまま『風立ちぬ』のエピグラフとして引用しました。そして作中で、小説家である<私>が、「風立ちぬ、いざ生きめやも」と和訳しているわけです。(なので、堀が訳したわけではないとも言えるわけですが、ここではその点に拘泥しません)



 

さて、この「生きめやも」という語句。なんだか奇妙な響きですが、たぶん古い文語で「生きなきゃならん」「生きようじゃないか」的な意味なんだろうと長いこと信じられてきました。だって「いざ」がありますからね、そう続くのがお決まりです。

 

 

■いざ生きめやも 誤訳問題

ところが、1987年に丸谷才一と大野晋による対談集『日本語で一番大事なもの』が発売され、この中でお二人が「いざ生きめやも」は誤訳だ、と堀辰雄をこき下ろしでいるんですね。
(問題の部分はそれ以前の雑誌に掲載されたと思いますが確認できません。また、これ以前にも短歌の同人誌でこの問題を指摘した方がいたようですが、一般には流布していません。)

 



「誤訳」というのも変な話で、フランス語に熟達していた堀が原文の意味を取り違えるはずはありません。これを日本語にするにあたって日本語の文法的な誤用があった、という話です。

日本語といっても「いざ生きめやも」は主に上代(万葉集の時代と思って結構です)に使われた表現で、「め・や・も」の「め」は推量・意志の助動詞「む」の已然形で・・・なんてくどい話はやめておきます。
要は「めやも」はセットで反語(しかも詠嘆の意を含む強い反語)を表します。「~だろうか?いや決してそうではない!」の意味です。
そうすると、「いざ生きめやも」は「さあ、生きようか、いや決して生きはしない」という意味になってしまうんですね。

ということで、丸谷・大野の両氏は鬼の首を取ったように堀を揶揄しています。

 

丸谷「生きめやも」というのは、生きようか、いや、断じて生きない、死のうということになるわけですね。(中略)つまりこれは結果的には誤訳なんです。「やも」の用法を堀は知らなかったんでしょう。

大野「こういう訳をするようでは堀さんは日本語の古典語の力はあまりなかったと思います。彼は『かげろふの日記』を書いているけれども、原文の肝心なところはきちんと読まないで、なにかの注釈書を頼りに読んで、それでお書きになったと思います。というのは、『生きめやも』と誤訳する程度の力では、『かげろふ日記』の原文のこまかいところはとうてい読めないからです。『いざ生きめやも』の訳はおっしゃる通り全くの間違いです。」

 

まあ、誤訳を指摘するのは古典学者の本望でしょうが、威を借りて『かげろふの日記』まで貶すのは邪推というべきでしょう。

 

 

堀辰雄は『風立ちぬ』の執筆(1936~1938年)と前後して、折口信夫を通じて日本の王朝文学(平安期)に傾倒し、さらには上代の文学(主に「万葉集」)に傾倒していきました。その最初の成果が『かげろふの日記』(1937年『改造』12月号に掲載、出版は1939年)だったわけです。
実際、信濃追分の「堀辰雄文学記念館」には、堀の蔵書が多数所蔵されているんですが、中でも「万葉集」関連の注釈・研究書は多数あり、堀は夥しいメモや書き込みを残しています。「めやも」に関する書き込みも多数見られるそうです(以下参照)。
(渡部麻実「堀辰雄『風立ちぬ、いざ生きめやも』―『風立ちぬ』から『万葉集』へ、『万葉集』から『風立ちぬ』へ―」『国文目白』52号、2013年2月)

 

▼堀辰雄文学記念館


ただ、堀がこうした書き込みをしたのは1937年頃からと思われ、それはちょうど『風立ちぬ』の各章を発表していた時期と微妙に重なります。「風立ちぬ」執筆時点で堀が「めやも」の用法を知らなかった可能性はゼロではないわけです。

が、それはありえませんよねぇ。だって人の興味や嗜好なんていうのはある日突然降ってわくはずはなくて、長年の経験からくるんですよ。おそらく、堀が東大国文科に在籍していたころから古典文学にはかなりの興味と知識があったはずです(ちなみに大野先生も東大国文科の出身ですね)。

両先生は堀を見くびりすぎじゃぁないですかね?

 

▼堀辰雄

 

ちなみに、幾つかブログや論文を読んでみましたが、「めやも」は反語というよりは疑問を内在した哀切の表現だという論や、そもそも上代の表現なら「生かめやも」でなければならず「生きめやも」とした時点で、中世以降の表現として分析しなければならない、という説もありました。
古文の教養がまったくない私にはちんぷんかんぷんですが、要は「めやも」の用法自体がそう単純ではないということです。

 

 

■ By chance or on purpose ?

 

「いざ生きめやも」の誤訳(誤用)・・・問題は、堀辰雄がこれをミスったのかわざとやったのか、ですね。
私は「わざとやった」方に100万ドル賭けます。

「いざ」と発したからには 語の連結ルールからいって勧誘や意思を表す言葉がくるしかないわけで、本来「いざ生かむ」とか「いざ生くべし」とか選択肢はごく少ないんですよね。東大国文科ならずとも、誤訳のしようもないシンプルなものです。
そこに「生きめやも」なんていう妙な表現を持ってきたのは、何か魂胆があったと考える方がむしろ自然でしょう? 堀がわけもわからず変な使い方をした? そう考えるほうがよっぽど変でしょう?

 

 

そういえば、先ほど上げたヴァレリイの句を写していて気づいたんですが、堀はヴァレリイの原文をそのまま使っていません。

 

(原文)Le vent se lève ! … Il faut tenter de vivre !

          ↓

(『風立ちぬ』のエピグラフ)

    Le vent se lève, Il faut tenter de vivre.

 

そう、堀はヴァレリイの原文からエクスクラメーション・マークを削除して引用しているんですね。「生きよう!」という強い意志を表す感嘆符を剝ぎ取った・・・ここにも堀の密かな作為がうかがえるはずです。

 

▼堀辰雄/『風立ちぬ』初版本


堀は上代の言葉を研究する中で、「めやも」の独特のニュアンスに着目し、

 「生きめやも」ってやったら面白い表現になるんじゃないかな?破格だけど・・・

と思いついたんじゃないでしょうか?
一般の人が知らない古語を利用して謎かけをした、と言ってもいいと思います。
堀が傾倒していた欧州モダニズム文学では、文法の破壊(あるいは一つの語句に重層的に意味を重ねる)なんてことは日常茶飯事でしたからね。そんな感覚でやったのかもしれません。

 さあ生きようか、でも生きられるだろうか・・・

「いざ生きめやも」はそんなニュアンスで堀が作った新語である、と私は解釈しています。生への意志と死への不安が綯い交ぜになった絶妙な七語。
学者先生の想像力を超えた部分で成立する微妙な表現が文学にはあるはずだし、あってほしいものです。

 

 

■「生きねば」と「生きめやも」

さて、先ごろ宮崎駿監督の『君たちはどう生きるか』が公開されましたが、その前の宮崎作品が『風立ちぬ』でした。もう10年も経つんですねぇ。
「宣伝しない宣伝」方法が話題になった『君たちはどう生きるか』ですが、『風立ちぬ』の方はかなり前宣伝をしていましたね。で、その宣伝ポスターについてちょっと気になることを発見しました・・・。

ジブリ版『風立ちぬ』の宣伝用ポスターに書かれているのエピグラフはこうなっています。

  堀越二郎と堀辰雄に敬意を込めて。
  生きねば。



・・・と思っていたんですが、映画公開前の第一弾ポスターでは「生きねば」のところが原作そのままの「いざ生きめやも」になっていたんですねぇ。今回画像を整理していて初めて気づきました。



これが第二弾以降のポスターでは「生きねば」に変えられた。これはどういうことでしょう?
私はその界隈の情報には疎いので何とも言えませんが、邪推するに、第一弾~第二弾の間にスタッフの間で、それまで気づかれていなかった「誤訳問題」が取り沙汰されるようになり、「生きめやも」が本当に誤訳だとするとこの映画にふさわしくないのでは?という話になった。それでやむに已まれずシンプルな「生きねば」に差し替えられた。そんなとこではないでしょうか?
そこには喧々諤々の議論があった・・・そんな妄想をしてしまいます。

(もちろん他の事情があったのかもしれません)

いずれにしても、「堀辰雄に敬意を込め」るのならば「いざ生きめやも」は外すべきではなかったし、外すなら同時に「堀辰雄に敬意を込めて」も外すべきだったと思います。
私には、どう考えてもここんところがこの映画の(そしてもちろん原作の)キモなんですよぉ。

 

 

■魂を鎮める歌

「風立ちぬ」のヒロインである節子のモデルになったのは、堀辰雄が1933年に軽井沢で出会った「油絵を描く少女」矢野綾子でした。二人はまもなく婚約しますが、ともに結核を患っていたため、1935年に八ヶ岳山麓のサナトリウムに二人で入院します。しかし、病状が悪化した綾子は同年12月に他界しています。(綾子との出会いは『美しい村』という小説で書かれています)

 

▼矢野綾子



綾子の死から間もなく執筆が開始された『風立ちぬ』は、綾子への「鎮魂歌」というべき作品です。
が、小説の中の小説家である<私>は節子の死の場面を書くことが出来ず、また節子への「鎮魂」を果たせぬまま執筆を放棄してしまいます。
現実の堀辰雄も、エンディングをどう持っていくか相当悩み抜いたようで、第4章の「冬」から第5章(最終章)の「死のかげの谷」までの間に1年余りの間隙があります。
結局は、当時堀が心酔していたリルケの「レクイエム」(鎮魂歌)という詩を転換点として、この小説は清冽な印象を残して閉じられます。

▼ライナー・マリア・リルケ


今回はリルケの影響関係について偉そうに語るのはやめておきますが、久しぶりに最終章を再読して感じたのは・・・
<私>が節子への鎮魂によって、そして堀辰雄が綾子への鎮魂によって得たものは、彼女たちの死を乗り越えて「生きる」意志だけでなく、むしろ自らの「死と向き合う」勇気であったろうということです。
その意味でやはり「生きねば」ではなく「生きめやも」なのです。

 

 

ということで、今回はおしまいです。

他に松本隆さんの妹さんへの「鎮魂歌」であろう『君は天然色』、あるいは楽曲『風立ちぬ』の歌詞についていろいろ書いたりしたんですが、私の稚拙な考えを押し付けるのは歌を楽しむ妨げでしかないですね、やめておきましょう。

皆さんそれぞれ歌詞の意味を噛みしめながら聴いてくださればと思います♪

 

▼大瀧詠一/君は天然色(1981)

 

最後に大瀧師匠と聖子ちゃんのデュエット『風立ちぬ』です!

 

▼松田聖子×大瀧詠一/風立ちぬ(duet version)

 

では~~パー