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目的は評価することではなく、そこにあるものをメモすること

『トレマーズ』

1990年アメリカ映画 96分

監督:ロン・アンダーウッド

脚本:S・S・ウィルソン ブレント・マドック

出演:ケヴィン・ベーコン フレッド・ウォード 他


怪物パニック映画。住民わずか14人の砂漠の村パーフェクションで便利屋をしているバル(ケヴィン・ベーコン)とアール(フレッド・ウォード)。村に見切りをつけ出ていこうとしていたところ、地中に潜む怪物グラボイズに遭遇、村人と共に戦う羽目に陥る。


とぼけた映画。オープニングからして、「ねえ、もう始まってるよ?」と思わせる緩さ。アメリカ人のじゃんけんって(しかもこんなに繰り返し)そういえばあんまり見たことない。グラボイズを避けて岩を棒高跳びで渡って行くところも楽しそう。すげー危機の割に全然緊迫感が無い。


そんななので、観ながら幾度となくバル役のケヴィン・ベーコンにキュンキュンする。決して整った顔ではないのだけれど、可愛いんだなぁこの人。そう思わせるのはおそらく、作り手側のかなり洗練された計算ゆえ。ほんの数ポイントしかかけずにバルの恋愛観を見せ、女子大学院生ロンダ(フィン・カーター)との距離を縮め、最後、彼女にキスをする。「末は博士」のロンダへの気後れを乗り越え行くバル。この短いエピローグがいい。本当にとても品が良い描き方で、ニヤニヤしてしまった。


パニック映画の主役としては不要のように思われるアールの役どころも、このラブ線があるから生きた。あと、マシンガン撃ちまくるバート(マイケル・グロス)&ヘザー(リーバ・マッキンタイア)夫婦、こんな人たちが普通に活躍する国っていうのがすごいなやっぱりアメリカは。


と、決して好んで見るタイプの映画ではないものの、そもそも好みやら何やらが根こそぎ状態になっている今の私には、ああ面白いなと素直に思えた。


それにしても、脚本の形とかって忘れちゃうもんだな。数か月の激動を経て、前どうやって映画観てたのかすら思い出せない。今の私は本当に、以前の私と別人のような気分だ。一体元に戻るのか、それともこれが成長というものか。


   グラボイズを避けるため、岩の上に避難しているバル、アール、ロンダ。

バル「そうだ。放射線で突然変異を起こしたんだ。それとも、ソ連用に政府が作ったか…」

ロンダ「化石の記録にもあんなのはないわ。それ以前の生物ね…とすると年は20億歳よ。それが突然現れた」

アール「きっと宇宙怪物だ。地球育ちじゃない」


★★★★★☆☆☆☆☆

『女はそれを待っている』

1958年スウェーデン映画 79分

監督:イングマール・ベルイマン

脚本:ウルラ・イザクソン

出演:イングリッド・チューリン エヴァ・ダールベック 他


出産をテーマにした群像劇。同じ産院の同じ部屋に入った、年齢も立場も違う三人の女、セシリア(イングリッド・チューリン)、ヨーディス(ビビ・アンデショーン)、スティーナ(エヴァ・ダールベック)。愛のない夫との生活に悩むセシリアは流産を機に別れを考え始め、年若い家出娘のヨーディスは望まない妊娠に悩む。スティーナだけが仲睦まじい夫と共に子供の誕生を待ちわびるが、烈しい陣痛の末に死産してしまう。


異様な勢いで迫ってくる映画。一体なんで子供なんかできるのか、そりゃ仕組みは知っているものの、考えてみれば不思議でたまらない。授かりものとはよく言ったもので、ホント、セシリアや、不妊の女医さんのように理屈で考えだしたら、子供なんかできるわけがないと思ってしまう。


私自身も年齢が年齢、立場が立場なだけに他人事ではいられない問題ではあるが、どうも考えられない。考えた結果、はいじゃあそうしましょうと言って人の親になるというのがそもそも怖いというか、訳が分からない。だからと言って自然に任せるったって、不自然を前提に生きてきてるのに、そこだけ自然に戻るっつうのもどういうことだかよく分からない。それでも「女はそれを待っている」んだよなぁ。うーむ…。


それにしても、ベルイマンは女性というものに対して恨みでもあるんだろうか。厳しいというか意地が悪いというか、痛いとこえぐってくる映画が多い気がする。「もういいじゃんそこまでしなくてもー!!」と、嫌いな食べ物を無理矢理食わされる子供のような気分になる。


   流産したセシリア。

   泣きながら看護師にすがりつく。

セシリア「ここでは、何もかもが違う…。誰もが普段と違う振る舞いをするの。この可哀想なセシリア・エリウスもよ…。ここでは子宮だけじゃなく、本性までさらけ出すことに…!」


★★★★★★★☆☆☆

『しとやかな獣』

1962年日本映画 96分

監督:川島雄三

脚本:新藤兼人

出演:伊藤雄之助 若尾文子 他


郊外の団地に住む前田家のスケッチ。元海軍中佐の父・時造(伊藤雄之助)は、小説家の妾をしている娘・友子(浜田ゆう子)と芸能プロダクションで働く息子・実(川畑愛光)に金をたかり、事業の成功を夢見て暮らしている。しかし、会社の金を着服し、家に入れていたはずの実が、会計係の後家・三谷幸枝(若尾文子)に大金を貢いでいたことが分かり、金と欲を巡る人々の思いが交錯していく。


「好きな映画は?」と聞かれるとこれと答えている。でも観返すのは久しぶり。夕焼けの狂乱ゴーゴーダンスや白い階段を上る妖しき若尾文子等々、一度目に焼き付いたが最後、消そうと思っても消えない悪夢的ビジュアルのインパクトはそのまま。だけど、それらの陰に隠れて記憶から抜けかけていた伊藤雄之助・山岡久乃夫婦の凄味、そしてピノサクパブリスタ君(小沢昭一!)の飛びっぷりも改めて強烈。


でも、それらの印象が鮮やかであればあるほど、「少し前の私が好きって言いそうだな」という醒めた距離感も覚えて、非常に不思議というか、奇妙だった。


***


数日間、田舎に帰っていた。福岡県の筑豊というところだが、あそこへ帰るといつも落ち着かない気分になる。筑豊という場所の特殊性がそうさせるのか、それともどこの田舎でもそうなのか分からない。しかしとにかく私にとって故郷とは、決してノスタルジックな場所などではない。


あまりにもいろんなものを見てしまう。目を背けたいものも、できれば切り離してしまいたいものも見てしまう。そこに住んでいた頃には見えなかったものが露骨なまでに見えてしまう。歳を重ねるごとにその感覚は強度を増し、その毒気に当てられて、東京の生活との整合を図ることもだんだん難しくなってきている。


この映画の過剰に露悪的なテイスト(を敢えて「好き」と言っていた自分)に距離を感じたのは、その戸惑いが尾を引く中で観たせいもあると思う。


人間の醜い本性を暴くということ自体は、実は大したことじゃないのかもしれない。確かにその瞬間は派手だしドラマチックだし、かつての私は確かにそういうところに魅力を感じていた。私が東京の仕事の現場で描く様々な局面というのも要はそういうものだ。でも本当に恐ろしいのは本性それ自体ではない。恐ろしいのはその後のことなのだ。晒された醜い本性の上に草が生え、家が建ち、何一つ解決はしていないというのに何事もなかったようにまたケロッと同じ営みを繰り返していく。故郷で過敏になった私は、その連鎖の暗い深淵にこそ恐怖を感じてしまう。


「筑豊ショック」から未だ完全には立ち直れていない私は、見過ぎてしまったゆえに今は何も言えない。傍から見ればいいネタになりそうなことだらけかもしれない。「だから人間て面白いよね」ってな調子で軽やかに描いちゃえばいいだけのことかもしれない。でもできない。隠したいし、忘れたい。だけど放置し何事もなかったように過ごしていくのはもっと怖い。


だからなのだと思う。今回この映画を観返して強く心に残ったのは、鮮やかで強烈な諸々のイメージよりもむしろ、折々にどこかから聞こえてくる赤ん坊の泣き声、登場人物たちの(特に若尾文子演じる三谷の)人としての丁寧さ、そしてラストカット、団地の外観に張られた有刺鉄線の錆びた曲線の形といった、「自然」とでも言うべきものの図太さの方だった。


私がこの映画をかつて「好き」と感じたのは、この映画のあけすけな若さに共鳴したからだと思うが、それは「戦争で一旦根こそぎになったけど、こっから上って行くよ」というこの時代の若さに由来してたんだと思う。たぶん作り手自身は若くない。「この映画、超面白いブラックコメディだよ!」なんて全然思ってない。本当は隠したいし忘れたい、でも放置しておくわけにはいかないという逡巡の上にたぶん成り立っている。


そういう、これまでとは違った意味で、やっぱり好きな映画だった。というより、参考になる映画かな。


   金をせびる時造に厭味を言う実や友子。

時造「お前たちはまたあん時のような生活がしたいのか!」

   テーブルを叩く時造。

時造「雨漏りのするバラックで、雑炊ばっかり食ってた生活が!」

よしの(山岡久乃)「……」

友子「……」

実「……」

時造「…わしはもうあんな生活はごめんだよ。あれは人間の生活じゃないよ。犬だって…猫だって、あんな惨めじゃないよ…。あんな生活がもう一度できるもんか…。貧乏で、貧乏が骨の髄まで沁み込んで…。貧乏で、貧乏で…体中が汚れちまった…。あの生活は、人間の生活じゃないよ」

よしの「……」

友子「……」

実「……」


★★★★★★★★★☆

内容として、以前のブログと変えるつもりはない。しかし、以前のブログの続きとして書くことに違和感があった。私の個人的な問題である。しかし、更新が滞ってしまったのが3月以降ということを考えると、単に個人に還元できる問題ではないような気もする。


でも滞ったままでもよくない。だから新しく始めようと思う。


名前を出す仕事をしている以上、「ニックネーム」などではなく名前を出そうかと思った。だが、このブログを仕事と結び付けて考えるつもりは毛頭ない。あくまでこれは自分のためのブログである。以前より一層プライベートな文章として書いていくつもりでもある。


しかし、匿名にしてしまうと、その影に隠れてしまう部分がどうしても出てくる。意図的に隠してきた部分も確かにあったが、いわばそれが、以前のブログの限界だったのだろうとも思う。だから初めに書いておく。


このブログを書いているのは山上ちはる、脚本家です。

以前のブログを見てくださっていた奇特な方々、また新しくここをご覧になる方々、今後ともよろしくお願いいたします。