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目的は評価することではなく、そこにあるものをメモすること

『原爆の子』

1952年日本映画 97分

監督:新藤兼人

脚本:新藤兼人

出演:乙羽信子 細川ちか子 他


広島の子供たちの原爆体験記が原作。原爆で家族を失い、瀬戸内海の小島の親戚の元へ身を寄せて小学校の先生をしている孝子(乙羽信子)が夏休みに広島へ戻る。そこで、かつての知人や幼稚園での教え子たちに会いに行き、原爆の残した深い爪痕に再び向き合うという話。


原作を読んでいないので、どのような形で生かされているのか詳しくは分からないが、おそらく、スケッチ的に孝子が出会っていく様々な人々のエピソードがそれに当たるのだろう。孝子の家の使用人をしていた岩吉(滝沢修)とその孫・太郎の話、それから、原爆で足に傷を負った姉が嫁入りすると喜んでいる平太の話が心に残った。


…という以上に、何も言えない映画である。出来事のタイミングが良すぎるんじゃないかとか、孝子はちょっと傍観者っぽいんじゃないかとか思いはするものの、それをもっての評価もしづらい。この当時、原爆というテーマを扱うことはタブーだったと言うが、今はむしろ、こうした作品に対して何を思うかということに対する暗黙の制約があるようで、気になると言えば気になる。


「原爆さえなければこんな不幸にも遭わずに済んだのに」という、この作品の一番のメッセージは、実は私にはさほど印象に残らなかった。むしろ感じたのは生きていくことの本質的なつらさ。原爆は確かに一つの大きな悲劇ではあったけれど、それでも生きなければならないということの業。やはりドラマ性というのはそちらに宿ると感じる。


原爆投下時赤ん坊で、物心ついた頃から物乞いの祖父の二人で暮らしてきた太郎が、その境遇を「不幸」と思うかどうか。「その不幸を何とかさせて」と手を差し伸べた孝子に連れられ、祖父と別れて不自由のない暮らしを送ることが、太郎にとって本当の「幸せ」なのかどうか。あるいは、原爆で親を失った平太が大勢の友達と共に橋の上から川に飛び込んで遊んでいる風景。「平太君、生き延びたのね!」という喜びに勝る、飛び込みの身体的興奮。そうした、割り切れない部分というか、枠に収まり切れない生命の営みのようなところがむしろ強く印象に残った。


   燃える小屋から焼け出された岩吉。

   太郎を孝子に託し、

岩吉「お嬢さん、わしのこの身体を、病院に寄付してつかあさい。冬になりゃ、火傷の跡が針刺すように痛なるこの身体、皆によう見てもろうてつかあさい…」

   そう言い残し、息を引き取る岩吉。


★★★★★★★☆☆☆

『革命児サパタ』

1952年アメリカ映画 113分

監督:エリア・カザン

脚本:ジョン・スタインベック

出演:マーロン・ブランド アンソニー・クイン 他


20世紀初頭のメキシコ革命で活躍した農民出身の革命家エミリアーノ・サパタ(マーロン・ブランド)の半生を描く。


身も蓋もないが、政治をテーマとする映画は概してピンと来ない。出来事の羅列にしか映らず、消化不良を起こしてしまう。伝説と化した実在の人物を描くようなものに関してはなおのこと、感情移入が難しい。


唯一、こいつだけ分かると思ったのは飲んだくれのダメ兄貴ユーフェミオ(アンソニー・クイン)。この映画でアカデミー賞を獲っているのは彼だけなので、もともと役が良かったんだとは思うが、私もいい大人だし、仕事も仕事だし、そういう脇道にしか興味が持てないというのは良くないのかな、と思わなくもない。


でも、「日本を元気に」などという途方もない文言が、冗談か本気かも分からない表情で日々喧伝され続けてる今のこの国で、じゃあ本道って何だったっけと思っても、私には正直全然分からない。「『日本を元気に』することこそが正義だろ!」と言われれば、「はあ、まあそうなんでしょうね」と答える以外にないが、何かもうそういうの、気持ち悪いとかいうのを越えて、これまでの人生で目にしたことのない、空前の間抜けに感じられる。


そう、もう本当に間抜け。この半年来を一言で表すとしたらその言葉。しっくりくるのはそれだけだ。


そんなんですからもう、まっとうな使命感やら正義感やらに興味を持とうとすればするほど、上滑りしてしまうことは確実で、今は無理に足掻くまいと思っている。しかし間抜けに身を委ね、とことん向き合おうと思っても、私はユーフェミオと違って酒が飲めない。


そこで今年はとりあえず、編み物をすることにした。


さすがに編み物はまずい、そこまで内に入り込み、世の中との接点を失うのはまずいと、これまでは禁じ手にしていた。でも今の私には、文章を書くという行為にすら間抜けが透けて見える(だからこのブログもこっそり書いている)。


分解するしかない。作為の入り込む余地のない、ミクロな身体的動作に没頭しながら、一つ一つ手応えを確かめていくしかない。冗談でも何でもなく、本当に確かなものは、今、そのぐらいのレベルにしかないと私は思う。


「ワイルドバンチ」級のラスト、この時代にこういう描き方があったということに驚いた。あと、マーロン・ブランドのスキニーパンツ姿が妙に印象に残った。


   農民たち、ユーフェミオの暴虐をサパタに訴える。

サパタ「…この土地は、お前たちの土地だ。自分で守れ。でないと、また奪われる」

農民たち「……」

サパタ「必要とあらば、命を捨ててでも守れ。敵を甘く見るな。また必ず来る。家が焼き払われたら、建て直せ。作物を植え直し、子供をまた作れ。谷を追われたら山に住め」

農民たち「……」

サパタ「完璧な指導者などどこにもいない。皆、欠点だらけだ。人は変わる。逃げたり死んだりする。頼れるのは自分だけだ」

農民たち「……」

サパタ「逞しい民衆だけが、未来を作るんだ」

   その言葉を聞いた農民の一人、

   妻を奪って行こうとしていたユーフェミオを撃つ。


★★★★★☆☆☆☆☆

『無法松の一生』

1958年日本映画 104分

監督:稲垣浩

脚本:伊丹万作 稲垣浩

出演:三船敏郎 高峰秀子 他


三船敏郎はどの映画で観ても凄いけど、この三船=松五郎はやっぱ特別。こんな人がいたんだなという頼もしさ、ずっと観てたい、また会いたいと思わせる魅力がある。もちろんこの役柄自体の素晴らしさも大きいとは思う。でも三船=松五郎のオーラが忘れ難く、43年制作・阪東妻三郎版も手元にあるけど、何となく観るのが後回しになっている。


それにしても、久しぶりに観返したこの58年版だけど、脇役も凄かったんだな。前は気付かなかったけど、田中春男がいるじゃないか!この、映画の中にただ飄々と「いる」という感じの田中春男、地味だけど本当に好き。あと、ひとしきり暴れた三船が九州訛りの棒読み笠智衆に諭されシュンとなってる辺り、まさにドリームタッグ。ウキウキしちゃうよ。たまらんよ。


先述の通り、この作品は43年にも映画化されている。しかしその版は戦時下の検閲によりカットを余儀なくされており、58年版のこの作品はそのリベンジとして作られている。


そのため、脚本としては既に出来上がっており(というか、原作小説、舞台版も共に有名である)、その安定感をベースとした上で、役者の華、カラー映画としての彩りといった部分により労力が注がれている。そういうわけで、全てにおいて抜かりがない。映画的贅沢に満ち満ちており、駄菓子の色彩をあしらったオープニングの時点で涙が出てくる。


脚本は、時系列を追った綺麗な三幕物。小倉の荒くれ人力車夫松五郎の暴れっぷりが描かれるのが19分頃までの第一幕。第二幕は、世の中が日露戦争の勝利に湧く中、松五郎がひょんなことから吉岡大尉(芥川比呂志)一家と出会い、吉岡が急逝したことにより、幼い息子・敏雄と未亡人の良子(高峰秀子)を献身的に支える60分までの辺り。そして第三幕は、大正に入り青島も陥落し、成長した敏雄が、相も変わらず自分のことを「ボンボン」と呼ぶ松五郎に距離を置き始め、松五郎自身もそれを感じ取り、吉岡家から身を引き寂しくその生涯を閉じるまで。


長く果てない松五郎の純愛の印象が強烈に残っていたので、改めて観返してみると、描かれる時間(特に第二幕)の短さ、そして構成のシンプルさに驚く。出来事一つ一つの印象が凄い強いんだな、これは。話を知っているからかもしれないけど、中盤、運動会の競走に飛び入り参加した松五郎が、一位を取って敏雄を喜ばせてやるエピソードで今回は号泣してしまった。


「おいちゃんが泣いたのはこん時だけ」と敏雄に語ってやる幼い日の思い出、字は読めないけど小学校がなぜか好きということ、良子を思ってはいるけれどそれ以上に自分の立場をわきまえている切なさ。俺の嫁はこれでいい、と美人画のポスターを貰って帰るところも泣けてしょうがない。良子に思いを打ち明けるシーンも、改めて観るとすっごい短いんだな。核心に触れることは全く言っていないということに驚いた。


もう参っちゃったよ松さん。裏も表も無し、難しいことも一切無しに、この人、この映画には惚れるしかない。ていうか、惚れない人なんて、いる?


   敏雄が大学進学のため小倉を離れることになる。

   良子、松五郎に、そのための荷物を駅まで運んでほしいと来る。

良子「それから、あの子のこと、これからボンボンと呼ばんようにお願いしたいとですが」

松五郎「!…」

良子「何だか、お友達に冷やかされて、決まりが悪いらしいんでね」

松五郎「へえ…。ボンボンを、ボンボンと言や、恥ずかしいって。ああ、そうか、ボンボンももうええ若い衆じゃからのう」

良子「いっぱし大人のつもりでね」

松五郎「(笑って)じゃあ、若大将とでも呼ぶか」

良子「そんなこと言うたらなお恥ずかしがります。まあ…吉岡さんとでも言うてください」

松五郎「よ、よし…吉岡…。吉岡さんか…。へえ…まるっきり、他人様のようじゃのう…」

   ×   ×   ×

   敏雄の荷物を車で運びながら呟く松五郎。

松五郎「吉岡さん…。吉岡さん…」


★★★★★★★★★★

『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』

2007年アメリカ映画 158分

監督:ポール・トーマス・アンダーソン

脚本:ポール・トーマス・アンダーソン

出演:ダニエル・デイ=ルイス ポール・ダノ 他


石油を掘り当てた山師の男が破滅へと向かう道。採掘中に死んだ男の赤ん坊を、自分の息子HW(ディロン・フリーシャー)として育て、「交渉の小道具」として仕事に同行させていた石油屋のダニエル(ダニエル・デイ=ルイス)は、ある若者から情報を聞きつけ、さらなる油田を掘り当てる。しかしその若者の弟であり、地権者の息子であり、宗教家として村人から信頼を得ているイーライ(ポール・ダノ)と対立。確執を深めていく中で、ダニエルは次第に自分を追い込んでいく。


***


観応えのある映画だが、結局のところよく分からない。この分からなさ、アメリカ人の宗教観、家族観などにも関係しているのだとは思うが、それを知ってたからどうということでもなく、おそらく多くは敢えてぼかしてある。個人的には、ダニエルに情報を売り込んだポールとその弟イーライは同一人物の別人格なんじゃないかと思ったが、どうなんだろうか。


「欲」に憑かれたダニエルと「神」に憑かれたイーライ、という対立軸で描かれてはいるが、イーライの説く「神」がいかにも芝居がかっているのと同様、ダニエルの執着する「欲」というのも、実は殊更に強固なものではない。そういう意味で、「欲」と「神」のぶつかり合いも、非常に人間臭い、同じ大きさの男二人が泥だらけで相撲取ってるような光景に見える。


ダニエルの「欲」は強固でない、と書いたが、むしろこの人自身は無欲だ。「血と骨」のたけしのように、生命力ばかりが煮えたぎって気の休まる暇がないだけ。何があったか知らないが、そういう振る舞い、そういう物言いしかできないだけだ。側にいたら迷惑甚だしく、憎たらしくて死んでしまえと思うだろうが、だからと言って酷い人だとは思わない。実際、私はこの人、じいさんにそっくりだと思った。孫づら下げて会いに行ったが、泥だらけの軽トラで稲刈りから戻ったじいさんは、野犬のような近寄り難さであった。


それにしてもポール・ダノの顔は凄い。「リトル・ミス・サンシャイン」の時も何事かと思ったけど、人を不穏な気持ちにさせる顔。キルスティン・ダンストと同系統だけど、男だから「可愛くない」などとも言われることなく、その不穏さを存分に武器にしてて、若いのに強い役者さん。


   弟だと名乗り訪ねてきたヘンリー(ケヴィン・J・オコナー)に、

ダニエル「いつも私は、人を見ても好きになることがない」

ヘンリー「……」

ダニエル「十分な金を稼ぎ、全ての人々から遠ざかりたい」


★★★★★★★★☆☆

『望郷』

1937年フランス映画 96分

監督:ジュリアン・デュヴィヴィエ

脚本:ジュリアン・デュヴィヴィエ ジャック・コンスタン アンリ・ジャンソン

出演:ジャン・ギャバン ミレーユ・バラン 他


繰り返しになるが、今、本当に自分がよく分からない。どう表現したらいいのかも分からないが、頭の中が拡散してしまっているような感じである。だから、こうして文章を書いていても、以前と違って全然焦点が定まらない。言葉の一つ一つがフワフワしていて手応えが無い。


原因が何なのか分からないし、これがいい状態なのか悪い状態なのかも分からない。だが、それらが一体何を意味しているのかなどと分析するより、とりあえず言葉(=感じ方)に対する手応えを早く取り戻したい。この文章はいわばそのためのリハビリ、映画を見ることも同じく。なので、手当たりしだい雑食するというよりも、以前に何かを感じた映画に今は目が向く。


***


フランス領アルジェリア、迷路のように入り組んだカスバの街に逃げ込み、そこの主のように暮らしている大泥棒のぺぺ(ジャン・ギャバン)。警察は彼の身柄を狙うも、カスバの街に阻まれ敵わない。しかし、可愛がっている手下の若者が警察に陥れられ、また、旅行者の女ギャビー(ミレーユ・バラン)と出会い故郷パリを思い出し、遂にカスバを後にする。しかし、ギャビーとはすれ違い。彼女の乗った船に向かってぺぺは叫ぶが、非情にも汽笛の音がその声をかき消し、彼女には届かない。


ああ、そんな…というあまりに映画的なラストには心が動かされる。が、それ以上に思うのは、男の映画だなぁということ。ある程度の年齢に達した女性であれば、献身的に尽くしてるのに「飽きた」という理由で出て行かれるぺぺの情婦イネス(リーヌ・ノロ)に共感すること必至でありましょう。


が、只今絶賛拡散中の私はその感慨にすら達さず、ぺぺの眼中にも入らないその辺に突っ立ってるただの女の気持ちに一番近いかもなぁ、とか思った。


それにしてもマジでこれ、男の目線から描かれる恋愛モノを見るときの最近の私のこの傍観っぷりは一体何なんだろう。クレイジーケンバンド、剣さんの歌うラブソングとか聴いてても、そこに出てくる「女」に自分を重ねることがまあできない。それでも曲として好きだから聴きはするんだけども、完全に自分とは関係ない世界だわなと。あらもしかして枯れてきてる私?女として?いかんぞ…。


それにしてもぺぺはモテる男だ。お肌サラサラの細身イケメンなんかより、ちょっとくらい脂の滲んだ恰幅のいいおっさんの方が結局のところ魅力的だ、というのがここ数年来の私の見解でありますが、ジャン・ギャバン、まさにその典型。傍観女とは真逆に位置する人物像であります。


そう、だから、今の私には何だか真逆の感じ方で真逆の世界を描いているような気がしてならなかった。郷愁に駆られ走り出す彼の人間的衝動、それがね、分かるんだが、何だか鏡の中を覗いているように遠い。この断絶、何らかの現代的症状を表してるような気がしなくもないのだが。


   ギャビーとの逢瀬。その別れ際。

ペペ「君に惚れ込んだらしい…。パリを感じるよ。君といると、風景が違って見える。夢を見ている心地がして、遠くから音が聞こえてくる…メトロだ」

ギャビー「(微笑んで)…」

ペペ「パリのメトロさ。君は宝石や絹で誘惑するが、感じるのは、メトロの音や、カフェオレの匂いなんだ」


★★★★★★★☆☆☆