they do in the movies INDEX

they do in the movies INDEX

目的は評価することではなく、そこにあるものをメモすること

Amebaでブログを始めよう!

『フレンジー』

1972年イギリス映画 116分 Frenzy

監督:アルフレッド・ヒッチコック

脚本:アンソニー・シェーファー

出演:ジョン・フィンチ バリー・フォスター 他


カッコいいオープニング。タイトルのキッチュなロゴとロンドンの街の空撮からの、ドーン!みたいな死体。にやける。


連続女性殺人犯として疑われた男ブレイニー(ジョン・フィンチ)を主人公とした話は話として、随所の遊びがとても楽しい。ブレイニーの元妻ブレンダ(バーバラ・リー・ハント)が殺害されたのを発見するまでの秘書のくだり、ブレイニーの彼女バブス(アンナ・マッセイ)が犯人ラスク(バリー・フォスター)の部屋におびき入れられるくだり、その長回しにワクワク。脂ぎったラスクの悪人ぶりも香ばしくていい。


死体と芋と豚足と。間抜けなところも多々あるし、これはというような美女も別にいないんだけど、いやはや楽しい映画です。ごちそうさまでした。


★★★★★★☆☆☆☆

『タクシードライバー』

1976年アメリカ映画 114分 Taxi Driver

監督:マーティン・スコセッシ

脚本:ポール・シュレイダー

出演:ロバート・デ・ニーロ シビル・シェパード 他


前に観たのは、何年前だったのかも思い出せないくらい前のこと。凄くセクシャルな映画だという印象ばかりがあったけど、実際観返してみると、意外にもセックスシーンは皆無だった。ポルノ映画を観てるシーンはあるけれど、それ自体、生身の性欲とは正反対のものとして描かれてるし。


でもやっぱり非常に性的な映画だという印象を持つ。クライマックスのトラヴィス(ロバート・デ・ニーロ)の暴発はそれそのものという感じがする。


そしてこのトラヴィスという人物像はめちゃくちゃ複雑だし、訳分からない。狙いなんだと思う。実際、映画の中で彼のバックグラウンドのディテールについて触れられることはほとんどない。ベトナム帰りという情報は知らされるが、それにしたって「それゆえの心の傷」などとこちらが判断することすらできないほどあっさり触れられるのみ。


そんな極めて拡散した彼のありようを改めて観ると、アイコン的に崇められているこのキャラ、この映画の立ち位置の皮肉を思わずにはいられない。まあだけど、何だか知らないけどついてっちゃうベッツィー(シビル・シェパード)の気持ちも分からなくはない。そういう魅力を確かに放ってはいる。


あと重大なところで、「死ななかったんだ!」っていう最後にびっくりした。なぜかそのエピローグに関する記憶が完全に抜けていたのだが、あの暴発を経ての何食わぬ顔。恐怖映画だったんだな。


★★★★★★★☆☆☆

『突然炎のごとく』

1962年フランス映画 107分 Jules et Jim

監督:フランソワ・トリュフォー

脚本:フランソワ・トリュフォー

出演:ジャンヌ・モロー オスカー・ウェルナー 他


小気味良すぎて、もはやパロディみたいな映像と音楽と台詞とキャラクター。冗談みたいに愛も戦争も誕生も死も畳みかけていく。ヌーヴェルヴァーグってやはり難解な顔で構えたものではなく、単純に非常に愉快な映像的遊戯だったのではないかと思う。だって「子作りに励んだ」って場面で映るの森の空撮だし。


カトリーヌ(ジャンヌ・モロー。宮本信子に似ている)が凄いなと思うけど、でもまだ分かる。カトリーヌ性を女なら誰でも持っているというか、持ちたいと思っているから。愛は実際、すぐに擦り切れる。彼女の振る舞いはつまり、その点に極めて敏感でいるということだから。


しかし本質的な意味において分からないのが原題にもなっているジュール(オスカー・ウェルナー。ショーケンに似ている)とジム(アンリ・セール)、そして加えてアルベール(ボリス・バシアク)。同時に、しかも長期間に渡りカトリーヌという同じ女性を激しく愛しながらも和やかに談笑したりするこの三人の男たちは単に「理解があって羨ましい」という次元を超えている。後半のカトリーヌのムギー!!!という自棄っぱちは、そんな男たちに対する「分からん!」っていうヒステリーの表現なのではないかとすら思う。


そして「アメトーーク!」の「嫁大好き芸人」の異様さを思い出したりした。その異様は、この映画で描かれる異様とは真逆の在りようである。「嫁大好き」的異様がともすれば美談とも取られる(そして当の女自身もそんな風に男に愛されることを望んですらいる)日本においては、この映画に描かれているものはもういよいよ彼岸の愛にしか見えない。


   ジュールと夫婦生活を送りながらも、ジムと婚約したカトリーヌ。

   しかし、離れて暮らすジムからの手紙に彼女は腹を立ててしまう。

   ジムは二人の元を訪れるが、ジュールは彼女は出て行ったと言う。

ジュール「ジム。彼女は何でもとことんやる女だ。自然は天変地異でその力を見せつける。彼女もそうだ。純真無垢な感情で、明晰さと調和に生きる」

ジム「女王扱いだね」

ジュール「女王なんだよ」

ジム「……」

ジュール「率直に言おう。彼女は美人でも聡明でも誠実でもない。だが女そのもの。僕らが求める女、全ての男が夢見る女だ。そんな貴重な女がなぜ僕らに授けられたか?彼女を女王のように迎えたからだ」


★★★★★★☆☆☆☆

『大日本人』

2007年日本映画 113分

監督:松本人志

脚本:松本人志 高須光聖

出演:松本人志 UA 他


テレビ見ながらブツブツ言うのは歳取った証拠だと思うけど、まあブツブツブツブツ、自分でもうるさいなと思うくらいブツブツ言いながら録画観た。


NHK、松本人志大文化祭。その中でやってたのが、この第一回監督作品。


どんな映画であっても、映画である以上は敬意を持って向き合い、平等にコレクションしようというのが私のポリシーでもあるのだが…うーん…。これは、ちょっと消しちゃおうかなって思ってる…。もうだって正直、うち、引くほどDVDあるんだもん…。今度東京で地震来て死ぬとなったら絶対私の死因DVD絡みだもん…。一本くらい消したってどうってことないよね…ということで、ここに書いて成仏させようと思う。


内容についてはつべこべ言わない。オチが訳分からんとかいうのももはやどうでもいい。私がこの映画で気になった、というか、耳障りで不愉快であったとすら言えるのは、主人公の大佐藤(松本人志)の喋り方。どこを切っても関西訛りの東京弁。これは私、もうホントに映画として致命的な欠陥だと思った。


大佐藤は、西武線沿いの練馬辺りに住んでるっぽく、代々「大日本人」業をやっているという家の性質から言っても、この人が関西出身であるはずはない。でも口ぶりは松本のまま。一応、かたち上は東京弁なのだけど、イントネーションとか、言葉の選び方とかを、大佐藤という人物に合わせる気がさらさらない。


これじゃ感情移入できない。大佐藤、人じゃないんだもの。松本が中に入ったキャラでしかないんだもの。そら113分ついてくのがキツイのも当然だわ。「そういう描き方もある」と言うのであれば、「じゃわざわざ映画のフォーマット使う必要もなかったんじゃねえの」と、単純にそう思う。「コントでよかったんじゃねえの」と。


照れと甘え。映画の前後のドキュメンタリーとかでも匂って匂ってしょうがないのは、松本という人のそういう部分。熟慮の末に腹括ってそうしてるんじゃなくて、難しいことは分からないんですよ、という単なる自分本位の開き直り。そう言えば、「学生の頃勉強しなかったけど英語だけはちゃんとやっとけばよかった、割り算とか要らんから」みたいなこと言ってたけど、そういうのもさ、


じ ゃ 今 か ら や れ よ


ということじゃないのかね。本気で海外を視野に入れてるんだったらね。たけしなんかだとそんなこと絶対人には言わないでバリバリやるよね、たぶん。


あと、ブツブツついでに書いとくと、なんか妙にこの人「普遍的」って言葉を使うけど、どの程度にその言葉を理解してるんだろと思った。「100点取るような」とか「観てる人を圧倒するような」って意味で使ってるっぽいんだけど、そんな他律的な基準、「普遍」の対極にあるもんじゃないのかね。大体、100点っていう基準は誰が作るんだよっていう。


「お客さんは分かってくれないんですよ」と言いつつ、認められること、褒められることを何より敏感に意識してる甘えというかさもしさというか、いやホント、同世代でダウンタウン好きだった人なら大なり小なり感じると思うんだけど、寂しい。言ってること、高校生の小論文並みの未熟さなんだもの。それ以下かも知れない。「そういう考え方もある」というレベルじゃなく、もう明らかに、こっちの顔が赤くなっちゃうくらい隙だらけなんだもの。


まあそんなようなことをのべつ呟きつつ、手元は休まず棒針を動かして、編みかけのスヌードの丈もだいぶ伸びましたと、そういう映画でした。合掌。


***


このブログの処遇をどうしようかなと実は思っている。「2」にしたものの、二つあってもしょうがないというか、あんまり効果的に住み分けができないというか、そもそも元のデザインの方がマシだったというか。


それに、映画に対する私の考え方も最近だいぶ変わった。観てはいるけど、そこばかりに興味が向かなくなった。代わりに、本読んだり編み物したり、あとあれですよ、教習所通ったり。一年前の私であれば絶っっっっ対にありえなかったことが、意外とすんなりありえている。


成長だか病理だか分かんないけど、ともかく何だか興味深い変化が現れているのは確かで、だからこそ今まで通りのフォーマットじゃ合わなくなってきた。何か書くならこんなとこに書いてる場合じゃないというか、もっと形を考えなきゃいけないとも思っている。


なのでいろいろ考えつつ…とりあえず、書きたい映画があったらまた書く、というくらいのスタンスでこのブログのことは様子見ていこうと思う。


   別れた妻とファミレスで言い争いになる大佐藤。

   カメラに向かって娘の顔は映さないでほしいと言う元妻に、

大佐藤「なんでモザイクなんかかける必要があるんだよ」

元妻「言われるの私たちで、いじめられるんだからセリアが学校で」

大佐藤「(声荒げ)いじめられるわけないじゃないかそんなことで」

元妻「言われる…(制して)もうちょっと…」

大佐藤「な、何だよ…何もは、恥ずることないじゃないか…!」

元妻「だからモザイクだけかけてもらったら…」

大佐藤「だからモザイクのかける意味が分からないんだよ」

元妻「えだからあなただけ映ればいいじゃない私たちはいいから」

大佐藤「モ…モザイクをかける…ことじゃなくて、もっと…やり方があるんじゃないのか!?」


このやりとりの不自然さが特に気になったというだけです。


★☆☆☆☆☆☆☆☆☆

『ガルシアの首』

1974年アメリカ・メキシコ映画 112分

監督:サム・ペキンパー

脚本:サム・ペキンパー ゴードン・ドーソン

出演:ウォーレン・オーツ イセラ・ベガ 他


「アルフレッド・ガルシアの首を持ってこい」と命じる大地主(エミリオ・フェルナンデス)は世間であり、それを探し回る部下たちは映画会社のプロデューサーであり、金と引き換えにその仕事を受けるしがないピアノ弾きのベニー(ウォーレン・オーツ)は映画監督=ペキンパーである。うがった見方でもこじつけでも何でもなく、まさにその通りの映画である。


腐敗臭と血みどろと土埃にまみれ「てめえらがなんでこんなもん欲しがるのか俺は知らんが持ってきてやったぞボケ」と生首ぶら下げ現れるこのベニーという男にたまらなく親近感を覚えるのは、紛れもなく私自身も同じ立場にあるから。映画監督や脚本家のみならず、一度でも冷静に自分の立場を省みたことのある芸人、役者、ミュージシャンといった「身一つ」の人なら、この男、他人とは思えないんじゃなかろうか。


しかし重ねがさね思うが、ペキンパー映画はしょっちゅう女殴るなぁ。だらしない身体した女(もちろんノーブラ)の服を破るなぁ。これに関しても、何のひねりもなくペキンパー自身の性癖の表れなのだろう。毛ジラミだっていたのだろう。


ある意味、隠すとか逃げるとかいうことを知らないペキンパー、垣間見えるささやかな愛や幸せへの(純粋すぎる)憧れも、きっと彼自身の偽りない思いだったんだろう。何べん出すんだ、というような女の乳も、実はいつもセックスと直接的に結びついてるわけじゃなくて、それ自体が安らぎの象徴のようにも見える。正直で繊細で愛おしい人だなと、こんな私ですら母性が動く。


それにしても、良き時期に普通に就職して月給貰って将来の計画も立ててるような人にはこの映画、どんなふうに映るんだろうか。これから就活始める学生さんなんかが観たら、ああ自由業なんて憧れるもんじゃない、条件が少々悪くても安定した仕事先を見つけようと思うだろうな。完全に踏み外してるもんな。


そうなんだよな。「普通」の道を踏み外すとこうなる。信仰も家庭もブチ壊して、それでもやんなきゃなんない。行かなきゃなんない。恋人エリタ(イセラ・ベガ)が死んだ辺りから一体何のためにこんなことやってんのか訳わかんなくなるけど、もう止まらない。止まったって帰るとこない。知らねえよ、こうしねえと気が収まんねえだけだよと止める奴をぶっ殺し、腐りかけた首にドライアイス当てる(そんな首にすら「お前エリタと付き合ってたんだってな」と嫉妬しちゃうあたり、男ペキンパーの可愛いとこだなと思いますが)。


ヤケクソの骨折り損で、何が何だか。どうしようもなく悲惨で、たまらなく滑稽で、でも結局生きるってそういうことだなぁと、結婚に関しても仕事に関しても思い切り踏み外してる私はしみじみ思いますよ。


   墓を掘り起こし、ガルシアの首を取るというベニーの目的を知ったエリタ。

   泣きながら、

エリタ「もう嫌よ…。お願い、このまま引き返しましょう。そして、何もかも忘れるのよ。二度とこの話はしないで…。一緒に暮らすだけで十分じゃない…!」

ベニー「ダメだ」

エリタ「……」

ベニー「パンをどうやって買う?」


★★★★★★★★★★