この春 私は
幸せな人生を生きたければ今を楽しむこと。
いかに自分と周りが楽しく笑顔でいられるか。
だと心底思いました。
その一端となったエピソードです。
先日母とのいさかいがありまして。
と言っても、私は当事者ではなく妹が巻き込まれて私はそれを第三者的に見ていたのですが。。。
久しぶりに実家へ帰ると不機嫌な母がいました。
一週間前の妹の言葉に傷ついたと言って一人でふてくされていて
せっかく泊まりに行った私と妹とまともに会話しません。
部屋の中でも離れて座って外を見ています。
何なのでしょう・・・
不機嫌さ全開モード。
ずいぶん前に読んだ誰かのエッセイを思い出しました。
「不機嫌」という椅子の 「イス取りゲーム」
この椅子はひとつしかないから、最初に座った人がずっと座ることになる。
周囲は その椅子に座った人のご機嫌をとったりバランスを取ることに気を使う。
もう座るイスもないからゲームは終了。
取り囲んでいた人たちも遠のいていく。
そんな内容だったかな。
(↑林真理子さんでした)
「不機嫌の椅子」ってまさにそのとおり。
最初に座った人はてこでも動かない。
(たぶん、座ったはいいけど そこから動けなくなっているのでしょうね。いろんな意味で)
周りがなすすべもなくなって、困惑しても座り続ける。
最初に座った人以外、もう不機嫌さをアピールしにくい。
母は結局、妹には何も言わず、ふきげんなままでした。
やれやれ。
せっかくの2日間をお互い気まずいままで過ごすことに
その年になってもその愚かさに気づかないなんて。
JWやめても、反省も子どもに対しての謝罪もなく
むしろ「私はかわいそう」アピールの母。
はい。可哀そうだと思いますよ。
だけど、不機嫌をまき散らすのは馬鹿らしいとは思わないのでしょうか。
せっかくの人生をそんな態度でいたら、周囲が引いていくのが分からないのでしょうか。
今回ばかりは母に言いましたよ。
母には母の言い分があるのも承知です。
だけど「不機嫌の椅子」には座り続けないで欲しい、と。
「私は言いたいことも言わずに我慢している」って言われたけれど、
いえいえ、じゅうぶん顔と態度に出てますから。
ぜんぜん我慢なんかしてないと思いますが。。。
言葉にしなければ なかったことになる と思うのは大きな間違い。
口から音声として出さなければ 言ったことにならない なんてありえない。
ただ、宗教の厳しい規則の中で家族をやっていて、お互い正直な気持ちを言い合う、という習慣は私たち家族にはなかったからね。それは残念ながらそのとおり。
「話し合う」ができないのは 機能不全家族だった頃からの悪い癖だよね。
たぶん、健全な家族なら、お互い意見や気持ちを言い合って、その場は険悪になったとしても翌日には平常に戻るのでしょうね。
それが出来ない家族なんでしょう。
だから、1週間も妹の言葉をああでもないこうでもないと捏ね繰り回し、自分の可哀そうさに哀れみをつのらせ 言葉を発した相手を恨んでいたのでしょう。
え~っと、母を責める投稿ではありません。
この母の不機嫌さが 私に「自分の人生のこの先」を考えさせてくれました。
不機嫌でいる事のデメリットの大きさに気づかされました。
今回、当事者でなかったからちょっと冷静に観察できたのもありがたかったです。
不機嫌は、自分の心を圧し潰し、
周囲の心を曇らせ暗くし澱ませる。
不機嫌でいると
最初のうちこそアレコレ気を使ってもらえるし 本人にしたら「ざまあみろ」といった「してやった感」があるのだと思う。
だけどいつまでも不機嫌でいるなら、周囲はあきれはて、そのうち誰も相手にしてくれなくなるのでしょう。
目に見える展開。
そんな人生は嫌だ。
私は、一日でも明るく楽しく暮らしたい。
暗い部屋に置かれた一つだけの「不機嫌の椅子」に座り続けて
やがて誰もいなくなる部屋に残り、文句をつぶやき続けるのは淋しすぎる。
反面教師から学びました。
今までの私だったら、突っかかっていったかもしれません。
「いい加減にして」と。
今回、冷静に母と話せた自分にも驚いた次第です。。。
「不機嫌の椅子」は家庭に1脚しかないのです。
その椅子の「イス取りゲーム」なんかしなくていい。
最初に座った「不機嫌さん」が家族の雰囲気を操作する・・・
そんなイスは捨ててしまえ。
毎日を口角あげて暮らすには、意識して、そうしよう!って思わない事には回らないのですよ。
ご機嫌様で暮らしましょう。
インドのせいかな~
恐るべし。インドへ言ったら人生変わる伝説。。。
本当かも。