その理由となったカニクリームコロッケはとあるブログで見たもので、煉瓦亭でも松本楼でもたいめいけんでもなく、なぜか三重の津にある洋食の名店、東洋軒の一皿だった。
元々は東京にあった宮内庁御用達の名店、クリームコロッケ発祥の店というのが僕の趣味料理精神の琴線に触れたに違いない。
なぜ津なのか、なぜ東洋軒なのかは省略するとして、色鮮やかな夏の稲穂の匂いと海の潮の匂いが交錯する津の名店が作り出す洗練された味を想像し、とにかくそれからはカニクリームコロッケのことばかり考えていた。
スーパーの惣菜、肉屋の惣菜、ランチのハンバーグの横にいとも簡単そうに座しているのに自分で作るとなるとやたらと手間がかかって滅多に作るこのないカニクリームコロッケ。
過去に作ったのはたぶん一回だけで、その時はクリームが緩すぎて大失敗だった。
よく考えたら洋食屋に行ってカニクリームコロッケをメインで食べたことがないかもしれない。
ハンバーグとかカツレツとかビーフシチューが多くて、カニクリームコロッケはハンバーグやエビフライの横に一個だけ“ついで”に添えてあって、よくお目にかかるのに僕の中ではメインに成り切れない存在だった。
ゆえにソースはどんなソースか、盛り付けはどうあるべきかがよく解らなくて考えを巡らせていたのだ。
それは、いつも顔を会わすのに実は何も知らない客先の守衛でいつも入館証をくれる女の子みたいな感じ。
週末にネットでレシピを探していたら、たまたま資生堂パーラーのカニクリームコロッケの画像を発見した。
『なるほど、堂々たる存在感』
それは野菜やポテトサラダがワンプレートで盛り付けられているいわゆる洋食屋の一皿、ではなくて敷き詰めたソースにカニクリームコロッケが2つだけのフレンチになりかかってる一皿。
せっかくソースも工夫して作ることだし、その存在感も出したいので資生堂パーラースタイルでいこう。
そして最近妙にハマってるスープは暑いので迷わず冷製のビシソワーズで決まり。
着地点は定まった。
作るカニクリームコロッケの店のイメージは津でも銀座でもなくて…
海か湖のリゾートのイメージ。
箱根の芦ノ湖畔のホテルのテラスで遅いランチなのか、逗子マリーナの海辺のレストランでの早いディナーのイメージなのか。
お酒はカリフォルニアのシャルドネのさっぱりした白ワインもいいけど、スペインのカヴァもいい…。
うん、実に悪くない。
大切な場面設定も決まった。
今回は冷す作業が必要なのでお昼を食べる前から始めて、まずはビシソワーズ作りから。
生クリームを少なくして濃度の濃い牛乳を使ってご丁寧に2回濾したのと、メイクイーンで作ったので口当たりもなめらかでサラッとしたスープが出来上がった。
塩コショウを控えめにしたスープは玉ねぎとメイクイーンのさっぱりした甘さが引き立っていて中々よい。
いや、すごくよい。

カニクリームコロッケはまずソース作り。
いつもはオリーブオイルで玉ねぎを炒めるところをバターで炒め、トマトソースにカニ缶の汁を入れてカニの風味を含ませる。
これもご丁寧に濾して、生クリームを入れてなめらかなトマトクリームソースの出来上がり。
やや酸味が強いか。
カニクリームコロッケの成功の鍵は、ひたすらベシャメルの濃度かと。
前回は緩すぎて成型の段階で収拾不能&爆発の連発をしでかしているので少しずつ慎重に牛乳を加えていく。
成型して揚げやすく、ナイフを入れるとゆっくりと流れ出るクリームを目指したい。
パン粉は軽くミキサーで細かくして洋食屋らしくしてみた。
なんせ柔らかい代物なので成型がやたらと難しく、大きさも整わず見掛けは不恰好なカニクリームコロッケの出来上がり。

さて試食。
カリッ、サクッ、トロッ。。。
あらあら…、芦ノ湖だか相模湾から吹き上げる爽やかな風が頬を撫で、口の中には蟹の風味とともに海の香りが広がる。。。
いいじゃない。
そこへカヴァを一口…。
濃厚でありながらももったりしていないクリーム、それをカヴァのさっぱりした酸味と炭酸が洗い流す…。
これまたびっくり、相模湖だか逗子から海を越えて前日見た地中海に来ちゃったよ。
はっきり言おう、形は悪いが完璧な仕上がり。

トマトソースの酸味もいいけどソースがなくても立派な一品。
丹精込めてカニクリームコロッケを作った側から言わせてもらうなら、ソースは無しか、ほんの少しつけて衣のサクサク感とクリームの味を味わって欲しいかも。
上等の中華料理屋で春巻はそのまま食べて欲しいのと同じ感覚か。
中のあんは料理として完成していて、春巻の皮で包んで揚げた歯触りとあんの味を楽しんでもらいたい。
なるほど、よくわかる。
朝から作り初めて食べ終わったのは夜の9時になろうとしていた。
この時期の地中海の日の入りは22時くらいで、夕食は20時頃からゆっくり始まるんだからこんなもんでしょう。
気がつけば大切な場面設定すら変わっていた夕食なのであった。
次は秋にでも木の子をたくさん入れて木の子クリームコロッケにしてみよう。
カニクリームコロッケ。
それは、いつも顔を会わすのに実は何も知らなかった客先の守衛で入館証をくれる女の子と何かのきっかけで飲みに行き、深良い話ができて得した気分…みたいな味だったのだ。