『大丈夫かい、奈美恵ちゃん!』
射場と竜田は、慌てて奈美恵に駆け寄り、抱き起こして介抱した。
『マスター!おしぼりと氷!大量に大至急ください』
ドアから頭を出して、竜田が叫んだ。
『ごめんなさ~い…射場さ~ん…あたしぃ…あの日の夜から射場さんの事が、心配で…心配で…ほとんど寝ていないんです』
奈美恵のろれつは回っていなかった。
『射場さん…。元気で…良かったあ!』
そのあとは嗚咽で言葉にならないのだ。
かろうじて口にしたのは『射場さ~ん、グリコ戦も、グーグル戦も、いないじゃないのよお』だけで、そのあとは、おいおいと泣きじゃくった。
『心配したよう。眠れなかったよお』
おいおいと泣いた。
『あの日から今日まで、まるまる1週間かい』
射場が優しく尋ねた。
奈美恵はコクリと頷いたが、涙が次から次へと湧いて来た。
射場はマスターに救急車の手配を頼んだ。
『大丈夫、今、救急車が来るから』
射場が優しく囁いた。
美沙子は、オロオロしていた。
竜田も、オロオロしていた。
一人、射場だけが冷静だった。
『過労だから、点滴で良くなるだろう』
射場は呟いた。
救急車のサイレンが近づいて来た。
射場は、マスターの機転で、ホテルの業務用のエレベーターで、奈美恵を抱えて降りると、そのまま救急車に乗り込んだ。
消防の医療隊員が、大通りの救急センターに搬送する事を射場に告げた。
射場は、救急車の中でも、奈美恵を優しく介抱していた。
『もう心配ないよ。ただの過労だから』
そう囁くと、奈美恵の額に、そっと口づけた。
しかし奈美恵は、酒と寝不足で、意識が朦朧としていた。
奈美恵は再び目を開けて、愛おしげな眼差しを射場へ向けると『ああ…射場さん、お帰りなさい。千葉も仙台も寒かったでしょう?』
奈美恵は、そう言い残して、深い眠りに落ちた。
射場は、駆けつけた奈美恵の母親に、事情を話して病院を後にした。
射場の胸の中には、甘酸っぱくて熱い何かが残った。
その正体はいったい何なのか、自分自身でも分からなかった。
ただ、病院の外の空気は、やけに清々しかった。
奈美恵の腕には、栄養剤と睡眠剤の点滴が投与された。
奈美恵は1週間分の睡眠をむさぼった。
一方で、2人きりになった美沙子と竜田は、2人ともコチンコチンになっていた。
『あ、あの…明日からドコモ戦だし、もう10時を過ぎているから…そろそろ』
と竜田が切り出した。
『あたしも、明日は学校が早いから、そろそろと…』
気まずい雰囲気の中で、2人は別々に店を後にした。
美沙子は、竜田のジャンパーのポケットに、自分の連絡先のメモをそっと忍ばせた。
翌朝、奈美恵は、すっきりと目が覚めた。
枕元に病院のメモ帳が置かれていた。
『心配なので、元気になったら連絡を下さい』
メモ帳には、そう書かれており、射場の連絡先が記されてあった。
奈美恵が、ぼんやりとそのメモ帳を見つめていると、奈美恵の母、陽子が、ドアを開けて病室に入って来た。
慌てて奈美恵は、そのメモ帳を、枕の下に滑り込ませた。
『アンタは…いったい何をやってるのよ。びっくりするじゃないのよ』
しかし、何故だか、陽子は機嫌が良いのだった。
『アンタが倒れて入院だって、ゆうべ病院から連絡があった時は、そりゃあ、びっくりしてタクシーで来たわよ。そしたら、アンタは、ただの睡眠不足だっていうし、あは、射場選手がいるじゃないのよ。もう、仰天びっくり!』
陽子は何だか楽しそうでもあった。
『それでさ、すっかり話し込んじゃって、アハハ、ぜーんぶ聞いちゃたわよ』
奈美恵は、憮然として『お母さん!』
と口をとがらせた。
ちょうどその時『具合はどうでしょうか』
と当直医が入って来た。
『はい…スッキリです』
奈美恵はばつが悪そうにそう答えた。
『ダメだよ。寝不足で、お酒を飲んじゃ。それに、君はまだ未成年じゃないか。お母さんも、しっかりと言ってあげて下さい』
2人は、顔を見合わせて、舌を出した。
煙草は厳禁であったが、お酒は、陽子も公認しているのであった。
すると、当直医はそれを見て見ぬふりをして、『はい、もう帰っていいからね』
と2人を促した。
すっかりと帰り支度を済ませると、陽子は、大事をとって、その日の学校を休ませてもらう事を、学校には既に連絡してある事を、優しく、いたわるように奈美恵に告げた。
そして自分も仕事を休んだ事を告げた。
なんだか、奈美恵は、申し訳ない気持ちでいっぱいになり、しょんぼりとしてしまった。
『帰ろう』と優しく陽子は言った。
『うん』
と真奈美も元気良く応じた。
精一杯に強がってみせた。
射場の連絡先が記されたメモ帳の事を、陽子に話すかどうか奈美恵は迷ったが、結局は内緒にする事に決めた。
そうして陽子の目を盗んで、そっと枕の下から取り出して、素早く上着のポケットにしまい込んだ。
陽子がトイレに入るスキを狙っていた。
病院の会計は、思った程の出費にはならなかった。
病院を出ると、早春の札幌の木々の芽吹く香りが清々しい。
そして、歩道の脇に解け残るサクサクの雪が、北国の厳しい冬の終わりを告げていた。
午前の日射しで解けた雪が、パサッと優しい音をたてた。
『そうだ。久しぶりにお寿司でも食べて帰ろうか。そして、帰ったら久しぶりに2人で晩ご飯作って、一緒にドコモ戦をゆっくりと観ようよ…』
『そうだね。ママはタックの大ファンだもんね』
2人は並んで、久しぶりに親子水入らずで、ゆっくりと大通り公園の地下鉄入口に向かって歩いた。
陽子と奈美恵は、大通りに到着すると、地下鉄ですすきのに向かった。
昼間のすすきのは、2人とも、何となく奇妙な気がした。
2人は、最近売り出し中の『すしどんまい』という店に入った。
陽子が切り出した。
『でも、娘が1週間も寝不足なのに、気づかないなんて母親失格よね。ごめんね奈美恵』
『さぁさ、何でも好きなものをどんどんと食べてちょうだい』
奈美恵は、それを聞いて俯いてしまい、何だか申し訳なくなって、あまり食べる事が出来なかった。
それよりも奈美恵は、射場と一緒に居る所を病院のスタッフに見られた事が、とても心配であった。
しかし医療従事者には、守秘義務というものがあるので、その点は杞憂であった。
そして、もう一つ気がかりな事を、陽子に尋ねた。
『ところで、ママ、射場さんは何時ぐらいまで居てくれたの』
『そうね、私と1時間ぐらい話し込んでいたから、11時ぐらいかな…』
それを聞いて奈美恵は安心した。
『今日はナイトゲームだから、射場さんは充分に睡眠をとっただろうな』
とひとり納得した。
ところが実際は、またしても射場は睡眠不足であった。
射場が、千葉への移動日の前日に睡眠不足であったのは、奈美恵の事が、気がかりであったからだった。
もちろん、その事は、奈美恵に明かすはずもなかった。
射場は、奈美恵の事が心配で、またしても眠れぬ一夜を明かしていた。
そんな事は、思いもよらずに、2人は寿司屋を後にすると、近くのデパートで、その夜のために食材を探し、あれやこれやと、楽しそうに鍋料理の具材を買った。
家の近くまで来ると、陽子が尋ねた。
『奈美恵、もう具合はいいんでしょ』
奈美恵が、すまなそうに、うんうんと元気良くうなづくと、2人は、コンビニでビールを1ダース買い込んで、家路を急いだ。
2人で、仲良く台所に立ち、料理を一緒に作るのは、陽子の仕事が忙しい事もあり、久しぶりだった。
2人とも、それが楽しくて、その日の時間はあっという間に過ぎていった。
気がつくと、もうじき、今日からのドコモ3連戦が始まろうとしていた。
中6日で、竹内豪の登板だった。
『今日こそは、いただきよね』
2人は鍋料理をつつきながら、グラスを傾けて、ワクワクと試合の始まるのを待って、テレビ画面に向かった。
ところが、思わぬかたちで、ウォリアーズは、この、左のエースの登板試合を落としてしまうのだった。
それは信じられない展開だった。
竹内豪は好投していた。
しかし、ドコモも前年の雪辱を果たすべく、やはりエースの梅谷をぶつけてきた。
試合は、2対2のまま9回の表まで進み、2アウト2塁であった。
このまま、あっさりとこの回をしめて、9回の裏にと、誰しもが期待していた。
ところが、4番の藪中の放った何でもない大きなライトフライを、射場は見失った。
ボールは、ライトフェンスに直撃して、ファーストの橋本亮の方へと、力なく転がってしまった。
ウォリアーズは、射場の痛恨のエラーで、決勝点を与えてしまったのだ。
その裏のウォリアーズの攻撃は、ドコモの押さえのエースである牛島の前に、完全に押さえこまれて、あえなく三者凡退でゲームセットとなってしまった。
満員の札幌ドームは、深い溜め息に包まれた。
観衆に挨拶をして、ダッグアウトに引き揚げる射場の背中は、とても寂しそうで痛々しかった。
テレビの前の陽子と奈美恵も、ガックリと落胆してしまい、2人とも、それ以上は食べる事が出来なかった。
奈美恵は、自分の部屋にこもり、いつものように、あのボールを枕元に置いた。
やはり、どこかしら懐かしくて、心地良い薫りに包まれながらも、先ほどのエラーが頭から離れなくて、悔しくて唇を噛んだ。
『射場さんどうしちゃったのかな』
そう呟くと、奈美恵は、深い眠りに落ちていった。
しばらくすると、陽子が部屋に来て言った。
『奈美恵、そんなにがっかりしていないで、お風呂ぐらいはちゃんと入りなさいよ』
と起こされてしまった。
奈美恵は、真夜中の2時に、しぶしぶと湯船に浸かった。
すると、ふいに上着のポケットに入っている、射場の電話番号を思い出して、急に気持ちが高ぶってきて、ドキドキしてきた。
あれやこれやと、妄想が、妄想を呼び起こして、奈美恵は1時間も湯船に浸かりきりで、気がつくと、すっかりとふやけて、茹で蛸のようになり、フラフラになってバスルームから出てきた。
頭がクラクラした。
そうして、やがて、ひと心地つくと、リビングの床にへたり込んで、射場の電話番号が書かれたメモとにらめっこした。
心の中で葛藤が生まれた。
この時から、奈美恵にとって、長く、辛い試練が始まろうとしていた。
『元気になったら、電話下さい。メルアドと番号を教えておきます。射場』
メモには、そう書かれていたのだが、奈美恵は、先ほどの負け方を思い出して怯んでしまった。
『メールも電話も無理だよ。なんて言葉をかけたらいいのよ』
奈美恵は困り果てて、ベッドに潜り込んだ。
翌朝、なんとか起き上がり、支度を整えて学校に向かったものの、もやもやとした気分は抜けなかった。
学校につくと、美沙子がやって来て話しかけてきた。
『奈美恵、大丈夫だった。心配したよ。射場さん、付き添ってくれたの。ねえねえ、病院では、どうだったのかな』
と茶化すような口調でたたみかけてきた。
それを聞いて、奈美恵は、頭に血が上ってしまい、つい美沙子に怒鳴って、当たり散らしてしまった。
『うるさーい!昨日は射場さんのエラーで負けちゃったのよ。美沙子だってファンでしょう。どうして、そんなにはしゃいでいられるのよ!』
単純に美沙子は、竜田のサインが、嬉しくて仕方がないのだった。
奈美恵の悩み事を知らない美沙子は、奈美恵が全快した事で、その喜びを分かち合いたかっただけなのだった。
奈美恵の怒鳴り声に驚いた、クラスメートたちの視線が突き刺さった。
『何をそんなに怒っているのよ!心配してあげているんじゃないのよ!いつもいつもは、勝てないのよ、野球は!にわかファンのクセに!』
『にわかファンで悪かったわね。なによ!いったい誰のおかげで…』
奈美恵は、そこまで言うと我に帰り、口をつぐんだ。
『ごめん、美沙子、そんなつもりじゃ…』
『あ…。あたしも言い過ぎた。ごめんね』
すると奈美恵は閃いた。
『そうだ、美沙子に相談すれば良いではないか』
とひとりごちた。
奈美恵は、事のいきさつを、全て打ち明けた。
しかし、これが、仇となった。
本来は、美沙子は、畑中のファンだ。
美沙子は、畑中のサイン、それもサインボールが欲しくて、奈美恵の微妙な気まずさなどはお構いなしに、射場に連絡をとるように、しつこくせっつくのだ。
奈美恵が、そうやすやすと安易に連絡して、射場の邪魔をしたくはないと説得しても、それを受け付けず、とうとう、沙織まで巻き込んでしまった。
沙織は、マッキントッシュ優の大ファンであるから、当然のこと、マルのサインが欲しい。
奈美恵は、その日は1日中、2人からおねだりをされた。
学校の授業どころではなかった。
奈美恵は、その日の学校が終わると、とりあえず、射場がまた活躍を見せた頃合いに、射場にメールをするからと2人に約束して、逃げるように学校を後にした。
奈美恵は、珍しく、真っ直ぐに帰宅した。
『あら、今日は早いのね。いつもは油売りの奈美恵も、やっぱり昨日の負け方の後だから、今日は気合いが入るのね』
やはり陽子も気合いが入っていた。
『そんなに単純な問題じゃないんだよなあ』
奈美恵は心の中で呟いた。
まだ試合開始には時間が早いので、学校の復習を始めたが、全く頭に入らない。
試合開始が待ち遠しい。
『お願い、射場さん。いつもの射場さんに戻って…』
奈美恵は祈った。
携帯電話に登録したばかりの、射場の欄を見つめながら思った。
『今すぐにでも応援メールを送ってあげたい』と。
でも出来なかった。
出来たとしたところで、こんな時間になってしまっては、射場の携帯電話は、ロッカールームの中だ。
ジャオラの放送が始まろうとしていた。
奈美恵は祈った。
陽子も祈った。
全ての射場ファンが、そして、全てのウォリアーズのファンが祈った。
祈りは届かなかった。
その日の射場は、エラーこそしなかったものの、全打席でヒットがなかった。
金岡巧は、4打席3安打、2ベースが2本であった。
射場の打席では、常に得点圏にランナーがいた。
射場はことごとくチャンスを潰した。
ウォリアーズは、残塁の山を築いて惨敗した。
ドコモ戦は2連敗となった。
奈美恵は、ますますと、射場に連絡が取りづらくなった。
陽子も奈美恵も、口数も少なく、夕食の後片付けと入浴を済ませると、早々に床に就いた。
しかしなんとしても眠れないのだ。
悶々として、いつもの様に、枕元の射場のサインボールを手に取った。
奈美恵は、いつものいい薫りにそっと包まれながら、思いを馳せた。
『この懐かしさは、どうしてなのかなあ』
記憶の糸を手繰り寄せてみた。
瞼を閉じると、それは、ある情景と共に、突然とフラッシュバックしてきた。
それは、遠い過去の幼少期に、今は亡き父の膝元に引き寄せられた時、父親の厚い胸板に抱かれた時に漂った、父の汗と煙草の入り混じった、まさに父の匂いであった。
奈美恵はそれに思い当たると『ハッ!』と息を呑んで声をあげて泣いた。
しばらくの間、むせび泣いた後、翌朝には仕事で早い陽子を気遣い、声を殺して、翌朝まで、体中の水分がなくなってしまうかのように、泣き続けた。
