盛岡食いしん爺日記
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8月24日、花巻へ行った。
花火に誘われた。
待合わせは花巻の蕎麦屋「嘉司屋(かじや)」。
上町(かみちょう)という花巻の繁華街から少し裏通りに入る場所。
創業は明治37年(1904)の老舗。
歴史のある店で、そば好きの宮沢賢治さんも食べに来ている。
もう一軒、やぶやという蕎麦屋では天ぷら蕎麦とサイダー。
嘉司屋では、かも南蛮とサイダーをメニューに加えてある。
当時、サイダーはハイカラだった。
Quiet Nights of Quiet Stars (Corcovado) - Arpi Alto
待合わせの時間より、10分早く着いたのに
二人とも来ていた。
年を重ねると、早く集まる。
若い頃は、必ずと言っていいほど誰かが遅れたのに。
夏限定の蕎麦を食べていた。
涼し気で美味しそうだ。
私は白金豚のカツ丼にした。
花巻のブランドの白金豚は、しっかりとした肉質で甘い。
玉子のとろみ具合もいい。
白金豚のカツ丼は、ちょっとした贅沢。
そば湯を飲んでいると「ドーン」と店の中にまで響く。
店の人たちも「始まった」と歓声。
待合せた高校時代の同級生二人と私も立ち上がった。
思春期を一緒に過ごし、もう長いつき合いだ。
三人とも東京で学生時代を過ごした。
大学は別だったが、よく集まった。
あの頃の若者は、三無主義などと言われ、無気力、無関心、無責任。
無感動が加わり四無主義、ついには無作法まで言われ五無主義。
大都会の暮らしにもだいぶ慣れてきた二十歳の頃だった。
A君のアパートにF君と3人でいた。
前夜、新宿で呑み明かした。
東中野の彼の部屋は便利だった。
あれはゴールデンウイークも終わる頃だった。
インスタントコーヒーを飲んでいた。
瓶に粉が入っていてお湯で溶かすだけのネスカフェ。
昨晩は、深夜まで騒いでいたのに、
翌朝は、静かにタバコをくゆらし言葉も少ない。
ふいにラジオから井上陽水の「傘がない」が流れてきた。
「テレビでは我が国の将来の問題を誰かが深刻な顔でしゃべっている」
「だけども問題は今日の雨、傘がない」
衝撃的だった。
気がつけば陽は高く、何か食べに行くことになり外へ出た。
東京の五月は、故郷の北国と比べると夏の様だった。
定食屋で、大きな鯵フライの定食。
ご飯はどんぶりに山盛り。
満腹でアパートに帰る。
たいてい、一服して解散する。
F君が言った。
「もうすぐゴールデンウイークも終わりだな。」
休日は、よく新宿に行った。
階段では前を歩く女の子が短いスカートを意識して、
両手でバッグを持ち後ろに回す。
だったらそんなに短いのを履かなきゃいいのに、
などと言いあったものだ。
新宿の歩行者天国が終わるまで歩いた。
伊勢丹前のガードレールに腰かけ、女の子たちを観察する。
でも見ているだけで声をかける勇気が無い。
夕方になると、ネオンの街に吸い込まれていった。
歌舞伎町の奥には行かずに、
居酒屋か、なんとかコンパという名前の店に行った。
円形のカウンターが幾つもあり、中に女性がいる。
航空会社の制服の店やミニスカートの店。
そこで、やり取りするのがせいぜいだった。
歩行者天国で逆に声をかけられてもおよび腰だった。
A君がどこか行きたいと言い出した。
京都、九州いやいや北海道だと盛り上がる。
何かの拍子に船に乗り離島がいいとなり始めた。
八丈島と誰かが行った。
あの頃、勢いにのると展開が早かった。
電話で船の様子を聞き、
夜の十時の八丈島への定期船に乗ることに決まった。
九時半に竹芝集合で解散。
その時の思い出を話してみると、
皆で腹を抱えて笑いあった。
嘉司屋から数分も歩けば、花火は大きく見える。
ぞろぞろと会場の北上川の方へ向かう人たち。
浴衣を着たカップル、家族連れ、少年達。
お年寄りは道端に椅子を出し、
団扇を片手に空を見上げている。
花火を見た後、二人は飲みに行き、
私は翌朝早いので盛岡へ帰ることにした。
八丈島のことを思い出しながら盛岡へ走った。
島の港に着いた翌日がゴールデンウイークの最終日だった。
一日めいっぱい自転車で走り回った。
八丈富士にも登った。
翌朝、宿の会計をすまして港に行った。
人で溢れ、既に乗船券は完売。
まあ、いいかと民宿へ戻り、あと一泊することにした。
また、思い切り動き回った。
疲れ果てて早めに寝た翌日、大嵐で船が出なかった。
その次の日も荒れた。
一泊二日が、三泊になり、宿代が払えなくなった。
あちこちに島の郵便局から電話し、送金を頼んだ。
結局、すったもんだで一週間も八丈島にいた。
最後に宿代を払った時、民宿の夫婦はほっとした顔だった。
きっと心配していたのだろう。
始めは一番広い部屋だったが、
四日後には狭い部屋に移されたことを思い出し、
ひとり苦笑いの帰り道。