<音楽が出ます、音量に注意>
<秋馴染む三十三間堂>
正式には、蓮華王院
<朝ご飯>
ふと、「朝ご飯をしっかり食べなさい!」
怖い顔が浮かんで消えた。
はい、今朝は、ご飯、赤出汁もお代わり。
二杯目は、おふ。
この艶、
どうしたら炊けるのか。
米の香りがして、
噛むほどに甘く、いつの間にか喉を滑る。
ご飯を赤出汁を小皿が引き立てる。
「美味しい」とは、「美しい味」か、なるほど。
荷物を宿に置いても駅で受け取れる。
「手ぶら歩き」で、もう一か所、行きたくなる。
<朝の祇園>
「癒しと美味しい」をお代わりした宿にもお別れ。
<三十三間堂へ>
平日の朝、混雑もなく外観をゆっくり。
障子の張替え中、この光景も平日ならでは。
延々と続いてきた営みを眺める。
<いよいよ中へ>
脚が止まる。
観音立像が並ぶ横からの眺めにしばらく立ち尽くす。
千一体の世界、永遠と静寂が支配する空間。
<画像は、当地で購入した 国宝三十三間堂より(上下)>
<心の波動が、穏やかに>
知識がなくても、この空間に立つと自然に両手が合い目を閉じる。
外国の人達も何かを感じている風だ。
淋しい話しではない。
母は、まだ若くして父は母の四十九日に発病し、しばらく癌と闘った。
仲良しの従兄は、「子供達を頼む」と言い、同じく若くして逝った伯母の下へ。
いよいよ人生を楽しむはずの叔父もあっという間に。
家族や親戚の半分が早めに地上から消えた。
千一一体の立像観音に混じって何処に佇んでいる、と想った。
さほど宗教に興味は無いが、此処に居ると、
人は弱い生き物で心の奥底に隠していた邪悪心を封じてもらい、
現実の不平不満を忘れてしまう。
先に逝った人達も一緒に、見守っている様だ。
父が寝たきりになって言った。
「慈顔を持ちなさい」
余韻を引きずり外へ出るとあっという間に過ぎていた時間。
門も見事だ。丁度、奥に松が見える。
京都の魔力も人が創った。
きっと暮らす人々も魅惑的なのだろう。
<帰り道>
帰りの新幹線に乗り、
ランチは、京都駅の伊勢丹の地下で買った稲荷寿司やら、おこわやら。
食べながら旅を顧みていると、
もう富士山、相変わらずの美しい稜線。
「おや」友人からのショートメール
「えっ、ほんとに京都なの!だったら証拠を持って来なさいね」
盛岡、南部の人もなかなか。
四度目の京都で、ようやく扉を開けたのは京都を知る案内人のおかげ。
<盛岡に戻って・旅の重さ>
昔々「旅の重さ」という映画があった。
内容は殆ど忘れたが、題名は覚えている。
旅の重さは、人それぞれ、その時の心模様にもよるだろう。
帰って、一週間ほどの「京都ショック」
でも、街の輪郭が前より鮮明になった。
奥州平泉の一世紀の栄華は、浄土を望みながら消えた。
少なからず、都との因縁のみちのく。
今も、縄文の頃の山河や森は残る。
ひょっとしたら、人々の奥底に京都とは違う何かが微かに残っているかも。
関東から盛岡に移り住んでいる人達に聞いた。
「京都には憧れる」でも「暮らしやすい街、盛岡」
なぜ暮らしやすいのか?
「不思議の街」かもしれない。
今度の旅は、重い土産を担いで来た。