盛岡の街の並木の葉も舗道に散りだす頃、毎年出かける処がある。

11月上旬、目指したのは平泉の中尊寺。奥州藤原氏は、4代泰衡で幕を閉じた。

中尊寺、毛越寺と無量光院跡など子供の頃の遊び場だった。始めは父に手を引かれ、成長と共に一人で高館の義経堂から北上川と束稲山を眺めに行った。白鳥の方へも足を伸ばす様になり、しだいに平泉の素晴らしさを知る。

昭和25年の金色堂の調査で泰衡の首桶から発見された古代の蓮の種が苦労の末に開花した。数年前、盛岡市前九年の一ノ倉邸の小さな池に株分けされ、今年も中尊寺蓮は、見事に咲いた。奥州、今の東北を支配下に約100年。例えば、会社が1世紀の歴史を刻むことは難しいものだろう。800年よりも昔、数万の人々が暮らし栄華を誇った歴史を想うと胸が躍る。

 

今年は、早い。もう今は散っだろう。

 

「夏草や兵どもが夢の跡」

朝廷と安倍一族の戦いや一族の内部抗争などの歴史の中で、奥州藤原氏の初代清衡は、戦で父を失い、弟と戦うことになる。骨肉の争いを生き、戦のない平穏な浄土の世界を実現しようと中尊寺を建立。2代基衡は毛越寺、3代秀衡の無量光院など。その外にも柳の御所などがあった。福島の白河の関から北を勢力下におき、金を中心に豊かな経済力を持って浄土を築こうとしていた。

 

 

歴史に詳しくないが、当時の荘厳な建物には大きな池があり形にも意味があったと父から聞いた。史実は、さておき義経記が色々な形で取り上げられるのは、奥州の中心として平泉の輝いていた栄華が、その舞台の最後だったからではないか、と思う。

 

 

小学生4年生の頃の想い出

仲間と4人で急な月見坂を先を争い駆け上がり、杉の大樹に触ったりしていた。すると東京から来たという学生達が、写真を撮ってくれるという。結局、誰の住所を教えたのか記憶はないが、しばらくして愛想のない顔で並ぶ4人の写真が4枚届き、今もアルバムに貼ってある。

いい時代だった。今では、親に叱られる。確か、皆でお礼を書いて送った。東京の学生に憧れたものだ。

 

 

ゆっくりと裏手まで散策する人、ガイドさんの旗の下、話に頷く人。カメラを離さない人。

 

今年は、少し早かったが、急な寒さで、さっと色づき、ぱっと散りそうだ

ちよっとした処にも石の階段があり、登ると祠や石塔がある。

 

 

緑と混じり合う、

 

 

 

 

紅葉の頃、いつも立ち止まる場所。

 

 

 

 

「五月雨の降りのこしてや光堂」

杉木立に囲まれた金色堂。

 

 

奥の能楽堂へ。伊達家が力を入れて寄進した。近頃は、狂言なども篝火の中で行われる。

 

 

 

陽が陰り、風は例年より冷たい。そろそろ戻ろう。

 

さて、胃袋も騒々しく、一関の駅前「松竹」さんへ。たいていのお客さんは、ソースカツ丼だ。丁度、テーブルが空いた。

「はぁ~い、いらっしゃい。あのっしゃ、ちょっとまってね、いまさ、かだづけっからさ。」

と爺には懐かしい一関の言葉。

「ごめんね、またせてね~、はい、お茶。」一関の人は快活な人が多いと思う。食いしん爺は、スペシャルなやつをオーダー。

 

 

「これが、ヒレ、これがロース」と指を差し丁寧に解説してくれる。

 

 

 

この、ソースかつ丼のキャベツとソースとご飯が妙に合う。が、当然の事。かつ丼とは違い、カツ定食が丼ぶり納まっている感じだ。カツ、キャベツにソースをかけてご飯で食べる。

美味しい。

 

 

満腹感に浸りお茶を飲む。あれ、空だ。

「あのっさぁ、ごめんなさいね、いま、お茶のおかわりもってくっからしゃ。」

すぐに、土瓶ごと持って来た。

時々、思うのだが、なぜ「奥の細道」で芭蕉は、平泉で南下したのだろう?もう少し北へ来て欲しかった。

さてと、後は盛岡まで1時間ほどのドライブだ。

いやいや、今日も、美味しい1日だった。