城下町の風情が漂う、弘前。

2年ほど前に来た時、蕎麦屋「會」を訪ねたが暖簾は無くなっていた。

ところが、偶然にネットで近くに移転し、復活していたことを知り、早速、訪ねてみた。もう、3年ほど前の話らしい。

あれ?その店先の暖簾には「清水」とある。

「ここは、そばや會さんが移った処ですか?」

「はい、名前は変わりましたが、蕎麦を打っているのは同じ人です。」

早速、天ざるを頼んだ。

 

 

店の中を眺めているうちに、どんどん席が埋まる。

食べ始めるころには、お客さんでいっぱいになった。

 

 

久し振りの「會」じゃなく「清水」 美味しそうだ。

 

 

そうそう、この天婦羅だ。

弘前に寺町は、2つある。その一つの新寺町の通りには、お寺が片側にずらりと並んでいて丁度、真ん中辺りに「真そばや會」があった。なんでも明治の商家の建物だったが老朽化で使えなくなったらしい。

久し振りの爺には、やはり、まだ「會」の方がしっくりくる。

 

 

「味は、変わりないのか?」と思いながら食べている。

何かが、ほんの少し違う気もする。蕎麦も鰹だしの効いたタレも同じで天婦羅も美味しい。

たぶん、あの古い屋敷の畳で食べる雰囲気も「美味しい」の一つだったのかもしれない。

せいろの塗りが所々剥げている。會の面影。

 

 

蕎麦を打つところも新しい。

 

 

ここのもう一つの目玉は「かき氷だ。」沢山の種類があり、

弘前の人は、蕎麦を食べ、次にかき氷を楽しんでいたものだ。

朝晩は涼しくなり出し、肌寒い。

かき氷は、次の夏だな。

かといって、冬のお汁粉なども、ちと早い。

すると、隣の席の家族が、食後に全員、かき氷を頼んだ。

 

 

帰り道に、弘前城と藤田記念庭園の間を通ると人が出入りしている。

年に一度の夜の臨時開園とのことだった。これは、ついている。当然、見過ごすわけにはいかない。

庭園は、池や樹木がライトアップされ昼とは全く違う幻想的な世界が広がっていた。

 

 

くっきりと水面に映る大樹。

 

 

ここは、河岸段丘だと思うが段差を活かし、上に洋館と和風の建物があり、昼には岩木山が大きく見え、下には広々とした庭園が広がり、樹木が配され大きな池もある。その段差は、軽く10メートルを超える。そこに滝まで造られている。

 

 

(ライトに鯉が泳ぐ。左の石の上の方に影が池に見えますか?)

 

 

これが段差を登る階段。

 

 

竹の塀を抜けると洋館がある。

洋館の中にはカフェもあるが、もう閉まっていた。

 

 

 

 

和風庭園前の芝生広場では、津軽の伝統芸能が披露されていた。

 

 

魅了され、しばらく立ち止まっていた。

 

 

ここにある、書院造りの和風建築の中を津軽の人に案内してもらったことがある。

中には、津軽塗の家具なども置かれていた。

塗っては研ぎ、研いでは塗るの繰り返し。[ななこ塗」は、漆が乾かないうちに菜種を蒔いて小さな模様の「輪紋」を作っていく緻密な作業を積み重ねて仕上がると聞いた。

その話を聞きながら、母方の実家で祖父が大切にしているテーブルを思い出した。

津軽塗だと聞かされたことがある。

小さな建設業を営んでいた祖父が大切にしていたが、

孫たちがはしゃいで玩具を転がしたりして傷つけそうになった時でも微笑んでいた。あれは、本物だったのだろうか? 

高校生の夏休み、祖父の家に家族で行った時、ある地方の大学を受験してみようか?と話した。

すると、ぶっきらぼうだが、いつも穏やかな祖父が「やめておけ!とにかく近くに居ればいいんだ!」

と誰も見たことのない真剣な眼差しで言い放った。

みんなは、一斉に祖父を見た。何かに怒っている顔だったが、最後までその理由は分からなかった。

そうだ、今度の彼岸には墓参りに行くとしよう。

 

 

照明に浮かび上がる踊りに盛大な拍手が闇夜に響く。観客を魅了してやまない。

見ているうちに、このまま日本海側の鰺ヶ沢や五所川原、太宰の故郷の金木や津軽半島の先端の竜飛岬を巡る旅に出かけたい衝動に駆られた。

南部藩は、津軽藩と仲が悪かったらしいが、津軽も魅力的だ。もっと旅したい。

ほかの風土を知ることで逆に南部の特徴が浮かび上がるのではないか。

陸奥(みちのく)一人旅をしよう。そして埃だらけの記憶をもっと蘇らせてみたい。