8月に入り盛岡のさんさ踊りを皮切りに、みちのくの夏祭りがあちこちで始まった。

今年も青森県の五所川原市の「立佞武多」に行って来た。

真夏の夜に勇壮な「立佞武多」が出てくる。

館の扉は開き、高さ23メートル、重さ19トンの巨大な立佞武多が、まるで檻から下界に解き放たれるのを今かと待っている様だ。

 

 

盛岡から東北自動車道をサービスエリアに寄ったりで2時間。黒磯で降り、津軽道に。

 

 

岩木山と八甲田の間に広がる津軽平野。太陽が地平線に沈む。

 

 

立佞武多の館。

 

 

6階のレストランに行く。立佞武多は高い! そして地上には、沢山の人だかりが出来ているのが見える。

 

 

始めは展望レストランから見ている人達もいる。

 

 

食いしん爺は、まず、「ぼんじゅ」蕎麦を食べる。

 

 

これが、大好きだ。あっさりしていて極細の蕎麦は、美味しい。

 

 

真夏も、かき揚げ付きの温かい蕎麦を食べるのが、食いしん爺流。

 

 

食べ終わると、スタート地点に移動する。陽も落ちて刻々と暗くなっていく。今年も、沿道をこれでもかというほどの人混みだ。パレードのコースは1キロはあると思うが、沿道は人が溢れている。普段とは全く違う街になる。

パレードのコースは電線を地中化している。地中化したから運行できる様になった。

 

 

 

傍で見ていると、顎が上がり首が疲れる。

五所川原は、津軽半島の木材や日本海側からの海産物の集散地として栄えていた。名だたる豪商は、力を見せつけるよう高いねぷたを造った。その威容を近隣の村まで見せつけたという。戦後の大火や電線の普及などにより、途絶えてしまう。しかし、台座の設計図などが見つかった。市民の努力が実り、平成8年に一年限りの復活。その後、五所川原市全体の祭りとして平成10年に、約1世紀を経て復活する。そして「立佞武多(たちねぷた)」と命名された。

電線の普及の以前は、みちのくのあちこちの山車は、色々な形態があるが、背が高い立派なものが多かった。

五所川原の23mの立佞武多を初めて見た人は、その威容に「お~」っと叫び声がもれる。

 

 

 

「ヤッテマレ!」の掛け声は、喧嘩ねぷたの名残で、他所の街のねぷたを「壊してしまえ!」の名残らしい。青森の跳人と違うのは、一歩の跳ねが高く遠くに飛ぶ。太鼓の山車から始まり、徐々にねぷたは大きく、高さを増していくのだ。

五所川原の街は、5日間にわたって熱く燃える。

 

 

今年の新作は、出雲阿国だった。

後ろ姿には、どこか秋の気配がする。

もう10年以上も威容を誇る立佞武多を見て、必ず寄る処がある。和菓子の「葉山」だ。初めて、この店を見つけた時には料亭かと思った。その店構えに強く惹かれるものがあった。

その時、引戸を開けるとすぐ「美味しい」を直感した。

 

 

 

店の造りがいい。最初は、代々続く老舗なのかと思った。

この店構えを造る若きオーナー、いや親方と言った方がいいかもしれないが、センスの良さは間違いない。これならお菓子も美味しいと思ったものだ。

爺は、ここで和菓子の美味しさを学ばせてもらった。

 

 

まずは、見ていただこう。

今年は、沢山の種類を詰めてもらった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

秋の風が津軽平野に吹く頃に「葉山の和菓子」を紹介したいと考えている。

食いしん爺の中では葉山の和菓子とオーナーとの語らい、これが「立佞武多」と一つに繋がっている。お菓子自体の話は、あまりした記憶がなく、一番多いのが、家族の話と五所川原の街の話だ。つい爺も盛り上がってしまう。話の節々で、お菓子の話が見えてくる。

色々と聞かれると、

「特に、厳選した物など、使っていません。」

と答えると言う。

「それは、明らかに腕自慢じゃないですか。」

と言って笑った。

家族を愛し、この街を想うからこそ、親方は、しがらみや人への気遣いを知らない組織などの無神経さを嫌っているのだと思う。自分の「和菓子道」を突き進む姿から生まれる自由な和菓子は、とても美味しい。品のある甘さが大好きだ。もともと和菓子好きではない食いしん爺が楽しみに食べるのだ。

そんな風にして、自然に和菓子の美味しさを学んだ。

今年の夏も立佞武多を見て家に帰って祭りの余韻と共に和菓子を食べる。こうして爺の夏祭りは終わる。