東北新幹線が盛岡まで来てから、盛岡の「さんさ踊り」は、勢いを増していった。

そんな頃、初めて「さんさ踊り」に出た。バスケットボールの練習や飲み会にかこつけ、踊りの練習会に参加しないうちに本番が近づいてきた。見かねたバスケットの仲間のT君が、前日の夕方に教えてくれることになった。デン・デン、ダコ・スコ・ドン・・・・

ゆっくり太鼓を叩きながら、丁寧に振りを教えてくれた。30分ほどの時間だったが、リズム感の乏しい身体でも、なんとか踊りの順番を覚え、後は近くの人の真似をすればいいと考えた。

 

当日、スタート地点の市役所の前は、鮨詰め状態で人の熱気で暑い。たいして緊張も無く仲間と笑っていた。

いざ、本番。

盛岡のパレードをする中央通に向き合うと、スーッと人が縦横に離れた。

「あれ?」

僕は、てっきり密集のまま、手と手がぶつかりそうな具合で踊って行くものだと思っていた。

手がぶつかるどころか、沿道から見ようと思えば、一人ひとりが確認できるではないか。

踊るコースに入ると、直ぐに出発。

そして僕の耳に、ダダスコドンと、とんでもなく速いテンポで入ってきた。前の列が踊り出した。

手も脚も付いていけるはずがない。もともとリズム音痴だ。慌てれば慌てるほど、踊りの流れについていけない。「こりゃあまずい・・・・」

スタートが練習の始まりだった。そのまま、1キロほどあるコースの3分の1ほどが過ぎた。なんとか遅れながらも、脚だけが流れに乗りかけているが、手と脚がバラバラなのが自分でも分かる。

その時だった。何列か後ろにいた同僚が背中を突く。「この大変な時に・・・」

振り向くと

「来てるよ、ホラ」

と言って左側の沿道を指差し、戻って行った。

彼の奥さんの家と僕の実家は、盛岡から車で1時間ほどの市の住宅街にあり、50メートルぐらいの距離だった。

沿道を恐る恐る見た。

彼の義理の母と僕の母がこっちを見ている。身体を揺らして両手を振っている。しまいには、僕の名前を呼ぶ始末。

おまけに、歩くのが大変な沿道の人混みを苦労して掻き分けては、ついて来るではないか。

185センチを超す、ひときわ背の高い男が隊列と半分は違う動きをしている。

 

ついに、僕の踊りは、孤独な混迷の世界に入った。開き直った人間は、堂々と隊列の中で遅れて踊り出した。何食わぬ顔で、遅れた振りを省く。

しばらくして列の隙間に入ってカメラマンが入れ代わり立ち代わり、僕を撮っていく。もう、なるようになるしかない。完全に開き直った。

ようやく、みんなと同じような脚と手さばきになったのはゴール地点が見えてきた頃だった。

 

「よかったよ、上手で、すごく目立ってた。」

と母は、父や近所、親戚中に話していた。

いきつけの床屋さんに行った時のこと。

「ちゃんと練習してなかったでしょ! 列の真ん中でも目立ってましたよ。でも堂々としてるから一人だけ不思議なオーラが出てた。」

と言って店のスタッフ皆で笑った。苦笑いするしかなかった。

 

それから、さんさ踊りは、年毎に参加者が増え続け、今では3日間が4日間になった。その後僕は、もう踊らなかった。

それから、10年もしないうちに、母は逝ってしまった。

我慢強い母が濃緑色の嘔吐物を洗面所の白い陶器に苦しそうに吐き出した。人間の体の中から出てくるものとは思えなかった。

手術は胃を開腹し、腸へバイパスを作るだけで終わった。外の臓器への転移が酷く、手をつけられない状態だった。しかし、余命2ヶ月を半年以上も生きてくれた。その母の四十九日の法要の前日、父が癌であることが分かった。毎年、夏になると思い出しては2人で話していたらしい。お茶も花も、踊りも何でもやる母は、本当は息子の踊りをどう見ていたのだろう。

 

一人では身体の向きも、変えられなくなった。残り僅かになった母の人生。病室でさんさ踊りの話になったことがある。

「あれから出てないよね。踊り、上手だったよ。」

僕は、黙って頷いた。

 

 

 

 

その後、二十年以上も過ぎて何度かパレードに参加することになった。高張り提灯を持って歩くだけだったが沿道で少女の様に手を振りながら追いかけて来た母が、群衆の中から見ている様な気がした。

「どうして、踊らないの。」

 

今年も、立葵の花がてっぺんで咲いた。盛岡も真夏。

 

 

盛岡市役所にも看板が掲げられた。

 

 

想い出のスタート地点。

 

 

この中央通をずっと踊り続けて行くのだ。

今では、並木のトチノキは、大きく育ち空を狭めている。

 

 

中間を過ぎて、ようやく踊りの流れに乗りかけた。

沿道には、提灯も架けられた。

 

 

今では、ギネスの世界一の太鼓パレードや4日間で約1キロの道を3万5千人がパレードする賑やかなお祭りだ。

「伝統さんさ」というパレード用の踊りと違い地域ごとの伝統芸能の踊りに真髄があることと、その面白さを教えてくれた太鼓の名手がいた。彼女の音と振りを一度、見てみたいと思っていたが、なかなか機会がなかった。

「掛け声の「サッコラ」というのはね、「幸呼来」と書いてね幸よ来いって意味なの。伝統さんさは、それぞれが全く違う踊りなの。」

その人は、母の様に大柄で一見して人当たりが良いが、実はかなりの我儘で気性も似ているところがあった。今年こそは見に行かなくては。

 

7月も20日を過ぎると、盛岡の街では、あちこちから太鼓の音が響いてくる。

みんな、連日の様に、しっかり練習しているので、この時期になると聞こえる音もだいぶ整っている。

さあ、みちのくの熱い夏祭りのシーズンが来る。