そうだ、日本海に行こう

 ペン軸が畳に転がっていった。僕はぶざまに、ぽかんと口を開ける。喉から、濁ったビー玉のごとく、掠れた呟きが原稿用紙の上を滑った。
「あ、────、────」。

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「鬼山さん、海、いこうよ。次の休暇鬼山さんも空いてるでしょ」
 珍しいな。そう言う男に微笑む。確かにそうだ。だだっ広いだけの塩水の集まりに意味なんて見いだせない。
 美しさはわかる、ロマンスも。でもそれらに意味は、そこから創出される生産性はもはや、僕にとってはほとんど小数点をつけなければ表せないのである。
 それでも僕が今行くべきはそこだった。立ち上がって、寝間着を脱いで、最近買ったアロハシャツに腕を通す。虎と花が描かれた布地。自尊心が人並みにあれば詩人になっていたろうか。
 こちらを一心に覗く、背景に滲むような瞳にややまつ毛を下げて返す。無駄に長く伸びた刷毛は見透かそうとする視線を遮った。太陽から、ひさしで身を隠すように。

 

 

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徒然 / 意味なし / 後日談

「生き物には、ほら。領分とか、相応とか、そういうものがあるじゃないですか」

 血と泥水とが混ざり合った水たまりを見たことがある。まさに少女の瞳はそれだった。あんず色といえば聞こえはいいが、その目には、この喫茶店の狭い窓ガラスのごとく、信仰と観念とがあった。
「だから与えられなかったんです、お父さんにもお母さんにも、あたしにもできなかった。諦めるとかではなくて、事実、そうだった」
「苦しくはなかった? 君の置かれていた環境は、とても………ひどいものに思える。僕なら記事にするくらいには…」
 男はほんの驚きにその目を見返して、その粛然とした言葉に言い返してみた。
 少女──羅生は、殺していた息をふうと吐く。手元のカフェオレ・ボウルの中身が揺れる。記事にはしないって言ったから来たんですよ。わかってる、例として出しただけだ。
「それなら、いいんです。お母さんは…社会経済誌なんて読みませんけど、お父さんは、困ると思うから」
「困らせてやればいいんじゃないのか?」
「『あんな親』、って、言われました、お医者さんにも」
 身動きもせず、羅生はカフェオレの水面を見つめている。

 実のところ、男は診断を行った医者が知り合いであったから彼女のことを知ったわけで、こうして喫茶店で落ち合うまではただ友人の友人を紹介されるのだとだけ思っていた。
 であるというのに、医者いわく、彼女は、取るものもとりあえずに頭の中を「片付けられた」、不可思議な少女だという。急激な思考能力の上昇なんてよくある事だろうが、自然すぎることの不自然さというのがある。
 父親が少々有名な指揮者であることからか、本人の幸運か、伝手をわたってこれまた変わった──神の言うには『探索者』である──医者にかかってそれが発覚した。両親のほうは医者の曖昧な説得でそのことをごまかされたらしいが。
「……お父さんとお母さんを、娘の前で馬鹿にするって、それこそひどいと思いませんか。お医者さんも人間なんだって知れたのは、いいことですけど」
 反してこの少女はその異変を実に素直に受け取っているらしい。瞳は薄くガラスのように煌めいている。少女が絶望も気味悪がっていないのも、そう仕組まれたことのようだった。
「だからってほぼ他人の僕だけ残して追い返すか? まあこれでも記者だ、記録係にはちょうど良かろうが」
「お医者さんのほうが遠慮しただけですよね」

 「わたしはどっちでもよかった」、と言う声はどこまでも淡々としている。羅生の手が、机に積まれたショウペンハウエルとサリンジャー、ヘシオードスを撫でている。
 およそ温度の感じられない手。土気色の肌と乱雑な応急処置でできた古傷の数々。それらを医者が嘆いていたのを思い出す。
「……はあ…あいつに悪気はないんだ。すまないな」
「謝られたってなにも戻ってきません」
「身をもって知れたか。ご両親には……」
「お父さんもお母さんも、謝るようなことは、していません」
 間違った料簡を正す法律家の口ぶりである。男の座っている方の西陽はきつくて、座ったソファのほとんどは日向だ。汗が垂れる。汗が冷えて少し寒くなってきた。ハムカツが意外に大きいので、口休めをミントティーにするという選択は失敗だった。

 つとめて人間らしい反応を返す男の前、他人からは、羅生は非人間的に映っているものと思われた。
 男の黒いコックコートと羅生の真っ白なセーラー服。スカートのプリーツはアイロンののりが効いて美しかったはずだが、長袖はお仕着せ感の否めない型取りで、袖は小指の第二関節まである。
「幸せになるために生まれてくる九十九パーセントの人たちが事実なら、一パーセントの不幸になるべき人も事実でしょう。納得していますよ。むしろ今が不思議なくらい。…わたしの代わりに誰かが不幸になったのかなと思うと、気の毒ですけど」
「……とても…人聞きの悪い言い草だ」
「どう思われても、いいので。好きですよ、わたしのことを気にかけてくれる人は。でもそれ以上に、お母さんと、お母さんの愛するお父さんが好きなんです。結果的にあの二人はあたしを見捨てなかった。救われなければ、愚かすぎて家の中に入れないままのペットのままで、たぶんいつかは破滅していたんだと思いますけれど」
「救われた?」

 羅生がここで初めて笑顔ととれるだけの表情を浮かべた。それは、今までの淡々とした様子とは打って変わって、夢見がちな、宇宙学者が望遠鏡を覗き込むときの恍惚で──どこか知らない場所からふっと浮かぶようなものであったから、まさに正しい。
「なんにも悲しくないんです。例えるなら、そう……異世界転生でしたっけ? 他人の人生に乗り移ったみたいな、ああいう感じ。こんなこと、奇跡以外のなんでもないでしょう。」

 男はソファにもたれ、がらん、ごろ、と扉に取り付けられたカウベルが響くのを頭の後ろで認識している。  
 ぼんやりと、慢性的な幸福感を抱えている、と少女が言う。
 ずっと自分は愛されていて、気にかけられているような気分。なにかとても大きな喪失があって──

 羅生の撫で続けている表紙たちを思う。
 『動物農場』『フラニーとズーイー』、ないしは『城』にはあまりに不相応な台詞に笑いが漏れる。そう言ったらたぶん彼女はまたひきつるような無表情を見せるだろうが、男は空気が読めるため、狂信者の言葉に口は挟まない。
「あの頃のあたしは幸福でした。教師と医者は聖人で、父は神様で、母は片割れで。痛苦も悲嘆も煩悶も知らなかった…感じる器官がなかったんですから。そこにお父さんなりの愛がなかったと、わたしは思いません。そしてそう思わせた時点でお父さんの教育は成功している。」
「全部結果論だ。本当にそれで構わないのか」
「お父さんもお母さんも、心から喜んでくれました。あたしは絶望することはなくて、愛する二人の喜びを喜びとして受け取ることができる。この過去と今を、わたしは気に入っているんです。」
「怒りは?」
「覚えません。ばかなあたしが感じなかったのに、わたしがそれを想うなんて。わたしは神さまじゃない」

 いつの間に一時間も経っていたのだか、外から信号機の光と、夕方特有のこもった闇が差し込んでくる。濡れたアスファルトに反射する青い光。
「獣の愛なんて恐ろしいだけです。今度はうまくやれる。誰にも文句は言わせません」
 羅生のあどけないほほえみの下で、泥水のようなカフェオレが満杯のまま揺れている。本の塔が学生カバンにしまわれていく。
「お医者さんにはお礼をしておいてください。気づくのは早いほうが良いから、あなたのおかげだって」
 そう言うと同時立ち上がって、彼女は人らしく一礼を寄こす。
 男は大した見送りもなしにすっかりぬるくなったミントティーをすする。カウベルの音と投げかけられる赤い光。冷たさと複雑さだけが場を満たしている。

 

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星空の中の星として生きている(足元の影)
見上げているのは女王の視点に向けているから。いつもの鞄は持っていない。家にいるだけの人間に鞄はいらないから
滲むような紫と赤  どうやっても奪えない脳と視線の動き。ひとところに留まるのではなく、種を風で運んで花畑を作るように楽園を作りたいと思っている