小さい頃、おばあちゃんは週に一度家にくる人でした。
わたしはその日がいつも楽しみでした。
おばあちゃんはお三味線で長唄を教えていて、水曜日は家でお弟子さんにお稽古をつける日です
私は、お稽が終わるとお茶を出す役目だったので、お三味線が止むのを今か今かと待ちます。
お茶を出すと、一緒にお菓子を頂くことができます(笑)
「すはま」や「そば粉のボーロ」「あんこ玉」「かりんとう」などの駄菓子を
お弟子さん達がおみやげに持ってきてくれるのです。
おばあちゃんのお菓子
←なつかし~
普段おばあちゃんは、父の会社(鉄筋業)の寮にしているアパートみたいな建物に一人で住んでいて、職人さん達のご飯をつくったりしていました
昼間はモンペ姿で鉄筋を担いだりして、職人さんの仕事を手伝っていました。
子供ながらに「おばあちゃんなのに・・」と心配でした。
水曜日の夕方には会社に戻るので、わたしも時々ついて帰りました
おばあちゃんの住む部屋は、雨風をやっとしのぐ程の粗末な建物で、ちょっとした風でも揺れるほどでした。
お風呂はもちろんないし、一度外にでて会社へ行かないとトイレもない。
すごく不便だったけれど、おばあちゃんと銭湯にいったり、夜一緒にトイレにいってもらうのがうれしくて、不思議とイヤではありませんでした。
小学校3年生のとき、おばあちゃんが家に引っ越してくることになりました。
あの部屋におばあちゃんが一人で住んでいるのは心配だったし、何よりも毎日家にいてくれることがうれしかった
小学生の頃から、料理やお裁縫を教えてくれました
市場やスーパーマーケットにもよくついて歩いて、買い物の仕方を覚えました。
今は弾けないけれど、お三味線も習いました
算数や習字、花札も(笑)
おばあちゃんはタバコもお酒もするし町内会や老人会の役もします。
親戚や近所の奥さんたちの相談にものるし、父の会社の経営のことでもずいぶん頼りにされていたように思います。
父と母のけんか両成敗しました。「あんた(父)も悪いが、あんた(母)もそんないい方では伝わらんぞ」みたいな(笑)
少し大人になってから知ったことだけれど、おばあちゃんは未婚の母で、おでんや小料理屋をしながら、父を育てたそうです。
学生時代、よくおばあちゃんとケンカをしました。リコーダーとかで何度も叩かれたし(笑)
グレたりスネたりして、ずいぶんと心配をかけました。
嫌なこともうれしいことも、おばあちゃんには話した。
そういえば、そんなおばあちゃんも、子供のわたしを相手に「何のために長生きしてるかわからない。早くお迎えが来てほしい。」なんて愚痴を言ってたこともあったな。。
それでもいつも元気なおばあちゃん。
私が高校を出て社会人になった頃、おばあちゃんが温泉旅行から帰って、いつものように旅行の様子をおもしろおかしく聞かせてくれました。
旅行先の庭園で、池の飛び石を渡ろうとして、池に落ちてしまった。
ツアーの若い仲間が「池のばあちゃん」といって親切にしてくれて助かったけど、もうあまり人に迷惑をかけたくないから、旅行はこれで最後にする、と言っていたことを、今もはっきりと覚えています。
それからおばあちゃんはあまり外にでなくなりました。
歯を入れ歯に替えてから、みるみる元気がなくなって、料理の味付けがおかしくなってきて、母は父の会社の仕事をやめて家にはいりました。
わたしがお嫁に行く時、おばあちゃんは「あんたの花嫁姿をみるまで生きていようと思っとったから、感激してばあちゃん涙がでるわ。」と泣いていました。
息子が生まれた時も、本当にかわいがってくれて、こっそり自分のおっぱいを飲ませようとして、母に止められていたこともあったな(笑)
数年後、おばあちゃんは母の外出中に家の中で倒れて動けなくなり、近くの病院で入院することになりました。
それまでも母は、おばあちゃんの介護でいろいろと大変だったようです。
自分で出来ることがだんだんと減り、でも嫁に迷惑をかけたくない、頼みづらい、といった葛藤があったのか、
私達が会いに行くと、「あれ買ってきて」「これをあっちに移動させて」など、毎回頼みごとをされました。
その時母はなにもいわなかったけれど、どんな気持だったのでしょう。
入院生活は4年程続きましたが、母は毎日おばあちゃんの元へ通いました。
わたしも仕事が休みの日は、おばあちゃんに会いたくて病院へいきました。
その間に主人の母が認知症になり、徘徊がひどくなって、おばあちゃんに会いに行く機会が減りました。
それでも、介護や家族関係に悩んだときには、おばあちゃんに話を聞いてもらいに行きました。
頭はハッキリしていたので、「あんたも大変やね。それは困ったね。」と受けとめてくれました。
今思えばわたしの相談は、おばあちゃんを複雑な気持ちにさせてしまっていたかもしれません。
最後に病院に行ったとき、おばあちゃんはベッドで仰向けに寝ていました。
いつもは横向いて寝ているのに。寝顔だけみて帰るときに、ふとこれで会えなくなるような気がしました。
数日後、おばあちゃんが危篤状態と実家の母から電話がありました。
ちょうど主人の母をデイサービスに連れていかなければならず、すぐに駆けつけることができませんでした。
病院に着いた時には、既に息がありませんでした。
でもまだ温かく、わたしを待っていてくれたような気がしました。
おばあちゃんの手を握ってただ涙を流している、初めて見る父の姿。
おばあちゃんが亡くなった日は父の誕生日でもありました。
お通夜やお葬式では、わたしの知らないおばあちゃんの話をいろいろな人から聞きました。
みんなにインパクトを与え続けたおばあちゃん。
ダイナミックで優しく厳しいおばあちゃん。
とても芯の強い人でした。
おばあちゃんが亡くなってしばらくして、わたしのお腹に2人目の子供がいることがわかりました。
そのおかげで、主人の母を数ヵ月間介護施設にお願いすることができるようになりました。
おばあちゃんが、そのように手配してくれたのかな。。。
この子はおばあちゃんの生まれ変わりじゃない
その時は、まじめにそう思いました。
その後も、どうしようもなく行き詰まったら、おばあちゃんのお墓に行きます。
「どうしよう・・・」とつぶやくだけなんですけど(笑)
ブログを書いていて気がついたのだけど、わたしはおばあちゃんに感謝の気持ちをちゃんと伝えていない。
おばあちゃんありがとういまでも頼りにしています。