11月18日の東京交響楽団第605回定期演奏会(午後2時開演、サントリーホール)
指揮:飯森範親
バリトン:ロディオン・ポゴソフ
マーラー/ベリオ編:若き日の歌より
~マエストロによるトーク~
R・シュトラウス:家庭交響曲 作品53
ベリオがオーケストレイションしたマーラーは賛否両論の編曲。なかなか演奏されることはないのでめったにない貴重な機会。聴き逃せない。しかし、あらかじめ知っていたほうがよいことがあると思うので、簡単に。
まず、注意するべきはベリオは単純に「マーラー風」、特に「初期マーラー風」になることを目指して編曲したのではないこと。ベリオがやろうとしたのはあり得たかもしれないマーラー本人による初期歌曲の管弦楽伴奏版を作ることではなかった。
例えば、第10番におけるクックのように、マーラー自身であればこうしたのではないかということを、できる限り自分を抑えて考えて管弦楽伴奏を書いたというものではないのである。あくまでもベリオの音楽。
ベリオの姿勢が以上のようなのだから、例えば「さすらう若人の歌」や「角笛歌曲」の、マーラー自身によるオーケストラ版と同様のものを予想して聴くと、まったく期待を裏切られることになる。
「マーラーっぽい」響きに対する期待を抱いて聴くと、実際に響いてくる音楽が、期待とはかなり違っているので戸惑ってしまい、その時実際に聴こえている音楽に向き合えなくなってしまうおそれがある。
実際、このベリオ版「若き日の歌」を「まったくマーラーらしくない」といって非難する言葉が散見される。残念なことだ。11月18日の東響定期でも同様の感想を抱く人がいるかもしれない。
1曲目が「夏の担い手交代」で、これは言うまでもなく交響曲第3番第3楽章にマーラー自身が使っている曲。これも影響しているのか、ベリオのオーケストレイションは比較的「マーラー風」。2曲目もややマーラー風。
ところが第3曲「もう会えない」第4曲「悪戯っ子を躾るには」と後に行くにつれて次第にマーラーらしくなくなっていく。それで全体としてマーラーにふさわしくない恣意的な編曲という印象が残るのかもしれない。
ベリオのオーケストレイションがマーラーらしいかマーラーらしくないかというところではなく、マーラー初期歌曲から触発されたベリオ独自の音楽を味わいたい ものである。
指揮:飯森範親
バリトン:ロディオン・ポゴソフ
マーラー/ベリオ編:若き日の歌より
~マエストロによるトーク~
R・シュトラウス:家庭交響曲 作品53
ベリオがオーケストレイションしたマーラーは賛否両論の編曲。なかなか演奏されることはないのでめったにない貴重な機会。聴き逃せない。しかし、あらかじめ知っていたほうがよいことがあると思うので、簡単に。
まず、注意するべきはベリオは単純に「マーラー風」、特に「初期マーラー風」になることを目指して編曲したのではないこと。ベリオがやろうとしたのはあり得たかもしれないマーラー本人による初期歌曲の管弦楽伴奏版を作ることではなかった。
例えば、第10番におけるクックのように、マーラー自身であればこうしたのではないかということを、できる限り自分を抑えて考えて管弦楽伴奏を書いたというものではないのである。あくまでもベリオの音楽。
ベリオの姿勢が以上のようなのだから、例えば「さすらう若人の歌」や「角笛歌曲」の、マーラー自身によるオーケストラ版と同様のものを予想して聴くと、まったく期待を裏切られることになる。
「マーラーっぽい」響きに対する期待を抱いて聴くと、実際に響いてくる音楽が、期待とはかなり違っているので戸惑ってしまい、その時実際に聴こえている音楽に向き合えなくなってしまうおそれがある。
実際、このベリオ版「若き日の歌」を「まったくマーラーらしくない」といって非難する言葉が散見される。残念なことだ。11月18日の東響定期でも同様の感想を抱く人がいるかもしれない。
1曲目が「夏の担い手交代」で、これは言うまでもなく交響曲第3番第3楽章にマーラー自身が使っている曲。これも影響しているのか、ベリオのオーケストレイションは比較的「マーラー風」。2曲目もややマーラー風。
ところが第3曲「もう会えない」第4曲「悪戯っ子を躾るには」と後に行くにつれて次第にマーラーらしくなくなっていく。それで全体としてマーラーにふさわしくない恣意的な編曲という印象が残るのかもしれない。
ベリオのオーケストレイションがマーラーらしいかマーラーらしくないかというところではなく、マーラー初期歌曲から触発されたベリオ独自の音楽を味わいたい ものである。