クラシックジャーナル041に掲載された「マーラーについてあまり知られていないこと、いろいろ」に詳しく書いたことでもあるのだが、ブログやツイッターなどでも、私がマーラーの交響曲に対しての呼び名が基本的にはどれも正統性のないものであり、中には本人の全く知らないものや明らかに嫌がっていたものもあるのだから、(具体的には「巨人」、「夜の歌」、「千人の交響曲」等、「大いなる喜びへの讃歌」などは噴飯もの)使わないようにしたほうがよいのではないかという趣旨のことを書くと、何人もの方が「知らなかった」、「マーラーが付けたと思っていたので驚いた」、と言ってくださる。
だが、時に、「批判的」な意見が寄せられる。
それは主に次の二点になる。

①そういう題名が付いているほうが売れるのだから、本人の意思がどうであれまた誰が付けたものであれ、いいではないか。
②もうそういう題名が定着しているのだから今さらどうこう言わないでよい。

①のようなことは本当によく言われるけれど、果たしてこのような間違った変な「題名」が売れゆきに結びついているのだろうか。レコード会社やその他の音楽産業に関わっている人々の買い手をなめた思い込みに過ぎないのではないのか。
とは言え、売れゆきに結びつくかどうかは簡単には検証できないことなのでひとまず保留しても、この考えには看過できない点がある。
要するに、過去の「他人の作品」に勝手な題名を付けて「売る」ということが許されるのかということである。
特に著作権が既に切れている(古典的な作品の場合多くにあてはまる)直接に法律的な権利を主張する立場にいる者がいないだけに、いろいろな形でやりたい放題になっている。
タイトルがあるほうが売れるのだからいいではないかという人は、「作品というものは出来上がった時点ですでに作者の手を離れているものであるから、作者の意図通りに受け止めなければならないなどということはない」という今日では一般的になっている考え方を援用して自分たちを正当化しようとすることがあるが大きな間違いである。「作品は出来上がった時点で作者の手を離れている」からこそなおさらのこと、間に入って作品を受け手に提供する立場にあるものは恣意的な改変をしてはいけないのである。
タイトルというものは作品の一部である。それを「売り上げのため」ということで勝手に付けるのは、健康などに直接被害を与えないから問題にならないだけで、実は、産地や消費期限を偽るのと同じことではないのか。
どんな分野というか領域でも、売り上げのためということで嘘や明らかな間違いを「正しい」と見せかけたり言いくるめたりするのは許されないことであろう。
だから、①の「よく売れるからいい」は俗説をそのままにしておく理由にはならない。
更に②の「もう定着しているのだからいいではないか」などというのは言語道断である。そのようなことを言う人に対しては、「あなたは小役人か」(真面目に仕事をしていらっしゃる公務員の方ごめんなさい)としか言いようがない。
「もうそういうことになっているのだから…」などという言い分を許していたら(実際にはいろいろなところでこの言い分がうんざりするぐらいに通用してしまっているのだが)、この社会、この世界は全く身動きのとれないものになってしまう。
要するに、マーラーの交響曲に対しての変なあだ名や俗説が日本で(もちろん、これは完全に日本だけのことではないが、確実にそして桁違いに日本で顕著なことである)いつまでも歓迎され使い続けられている背景・根底には、原発の問題をはじめとしてこの国の抱えている大きな問題の根底にあるものと共通のものがあるのであろう。

中川右介さんが新刊の『指揮者マーラー』で次のように明言したのは痛快なことである。

以下引用
……日本では作曲家の意図とは全く関係のない曲名が、「そのほうが売りやすい」という理由で流布している。「作曲者が知らない題」も罪深いが、「作曲者が拒否した題」を平然と使い続けていることのほうが、その罪は重いだろう。無知ゆえのことであるのかもしれないが、知っていてなおも「千人の交響曲」と呼んでいるのであれば、それは冒涜である。(219ページ)


指揮者マーラー/中川 右介
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