高野麻衣さんの『乙女のクラシック』(新人物往来社)を読みました。
とても素敵な本です。
基本的には「音楽史」を語っているのですが、帯にある
「ようこそ、あなたのための音楽史へ。あなたの生活を薔薇色にいろどる魔法の舞台はこちらです」
という言葉通りの素晴らしい本です。
素敵に思ったところをいくつか。
「《アンナ・マグダレーナ・バッハのための音楽帳》。
夫の音楽をよりよく理解するため、もっと勉強したいと思っていたアンナ・マグダレーナのために、バッハが紡いだ練習曲集。こんなにも穏やかな愛のかたちを、たくさんの乙女に知ってほしい」(62頁)
クープランについて。
「…繊細なよろこびがあり、どんな冒険にも劣らない深い憂いがあり、痛みがある。その切実さをわからない人なんて、おそらくはじめから音楽とは無縁だろう。……それを受けとめる感受性こそがロココの、ひいては「乙女のクラシック」の基本だと、私は思っている」(70頁)
ベートーヴェンについてのコラムには、「音楽史最強のツンデレ男。その無愛想さに怯える少女もいれば、どうしようもなく母性本能をくすぐられる女性も多かったはずだ。……そんな男の『伝説のデレ』こそが、“不滅の恋人”へのラブレターである」とあります。(112頁)
という感じで、およそ「乙女」とはほど遠い私のような者も大きくうなずき共感しながら読み進むところや、そうだったのかと驚きながら納得するところが、ほとんどすべてのページにちりばめられています。そして、音楽だけではなく同時代の文学や美術、社会への触れ方も素敵です。
また、「池田理代子『ベルサイユのばら』…シェーンブルン宮殿でのマリー・アントワネットとモーツァルトのつかのまの邂逅が、愛らしいエピソードとして綴られている。」(89頁)のようにコミックや映画などについても実にツボを押さえた脚注が付いているのも嬉しい。
一番心うたれたのは、《アラベラ》について、
「エンディング、失意の婚約者の前に、階段の上から優雅な足どりでアラベラが降りてくる。音楽のなんという陶酔感。このオペラを観て以来、私は階段やエレベーターを降りるときにアラベラを思い出し、背筋を伸ばすようになった」(222頁)このように書ける人、好きです。
いや、《アラベラ》のくだりと同じぐらいか、それ以上に心うたれ、深く共感したのは、最終章「花咲く乙女たちのクラシック」かもしれません。「日本で最初のクラシック音楽愛好家は、旧制高校と旧制大学の学生たちだった――私はずっと、この説に疑問をもっている」(241頁)このことについては私も今後考えてみたいと思いました。
そして次の言葉に出会うことになります。
「マンガ界において、『小道具としてのクラシック』の第一人者はやはり手塚治虫だろうけれど、私のなかで萩尾望都の選曲は、もはや神格化されている。彼女の作品には『チェリストの恋人』『ドイツ音楽偏愛の男の子』などがしばしば登場し、日常を演出する」(243頁)
萩尾望都とクラシックについてはさらに次のように続きます。
「とってつけた『教養』ではなく、愛をこめて、じつに自然に。そればかりか、音楽は物語を暗喩し、伏線となり、最終話の余韻となる」
そして高野さんは高らかにこう宣言します。
「これこそ私の思うところの『乙女のクラシック』なのだ」。
深く共感しました。
感動しました。
一人でも多くの人にこの本を読んでいただきたいと思います。
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