本日12月25日は、わが師、中村真一郎(1918-1997)亡くなった日です。
もう11年になります。
語らなければいけないことはたくさんありますが、今日はご縁ができて間もなくの頃の、私としては忘れられないあるひとつのエピソードをご紹介したいと思います。
「 ・・・・・私が中村先生に三度目にお会いしたときのこと。
これについては、その日時も場所もはっきりと覚えていて、1978年、名古屋工業大学で講演していただいたときに、そのあと夜に席を設けてあったのだがそれまでずいぶん時間があったので、大学の隣にある名古屋でも有数の大きな公園である鶴舞公園の中の喫茶店で、2、3時間もいろいろととりとめのない、あるいは性急な質問につきあっていただいたときのことであった。
どういう話の流れで私がこういうことを質問したのかは覚えていないのだけれど、
「ヴィーンと言えば、先生、やっぱり《薔薇の騎士》ですよね」
と(たぶんかなり唐突に)切り出してしまったのであった。
おそらくはその当時、私はリヒャルト・シュトラウスのオペラに夢中であったのであろう。ともかく、中村先生の意見が何かききたかったのだと思う。
すると先生は、
「いや、ローゼンカヴァリアは加藤の専門だから、僕には言うことはないよ」
と、これ以前も以後も、まずどんなことをおききしても真正面から相手になってくださったのに、このときだけは珍しく話をそらされてしまったのであった。ただし、そのあとに、
「それに、ホフマンスタールはちょっと白粉臭いので苦手なんだ」
と付け加えられたのであった。
このことから言えるのは、中村先生は《薔薇の騎士》という、決して通俗名曲には属していないようなオペラについても、それなりにご存知であったということであるが、それがどの程度であったかというと、少なくとも台本作者がホフマンスタールであるということが即座に出てくるほどには知っていたということである(ちなみに、リヒャルト・シュトラウスのオペラをめぐる話題をもう少し付け加えると、この2年後、ちょうどカール・ベームがヴィーン国立歌劇場を率いて来日して、《ナクソス島のアリアドネ》の名演を聴かせてくれた直後のこと、私は先生を相手に《アリアドネ》の魅力について滔滔としゃべり続けたことがあったのだが、先生は楽しそうに、合いの手を入れながら聞いてくださったのであった)。・・・・・・」
『中村真一郎手帖 3』に発表した「中村真一郎と音楽」の一部です。
なお、文章中に出てくる「加藤」というのは、もちろん加藤周一先生のことです。加藤先生と音楽についはぜひとも書きたいことがあるので、近日中に書きます。