本日2008年12月10日はオリヴィエ・メシアン(1808-1992)の誕生日。
それも正真正銘生誕100年の誕生日です。
20世紀にこのような人が存在し、多くの作品を残してくれたことを寿ぎたいと思います。
メシアンに関しては一番本質的なところを実に見事に語っている篠田一士の文章があります。 ちょうど30年前に出た本にあるのですが、そのときから私はこれを超える表現には出会っていません。直接的には『峡谷から星たちへ』について述べられたものなのですが、メシアンの音楽のもっとも重要なところを見事に言い当てているように思います。
「・・・・・・メシアンの音の交響が、どんなエロスの陶酔を与えようとも、この沈黙の時間を音楽としてきく耳をもっているひとがあるならば、そのとき、彼はエロスの世界とは対照的な、つまり、アガペーの至福にみちみちた世界を夢みるはずだろう。
ぼくはメシアンと信仰をともにするものではないけれども、聖霊を信じ、神に貢献する彼の内面には、いささかの疑念もいだかない。だからといって、メシアンの音楽が喚起するアガペーのよろこびが真っ当なものだと言い切るのではない。事態は逆なのである。彼の音楽をききながら、そこに、近代のヨーロッパ音楽、つまり、ニーチェの言う「神は死んだ」という、苦渋にまみれたモットーにいかにもふさわしい作品群をききつけてきた耳には、およそ場ちがいな、澄みきったヴィジョンのひろがりを感得するたびに、ぼくは「ああ、これが神というもののなせる業か」と、三嘆これ久しうしているのである。
このヴィジョンの内訳について云云することは、ぼくにはできない。ただ、そこにヴィジォネールなもの、すなわち、音が音としての機能を存分に発揮させられながら、音楽家自身にはさだかに見えているはずの世界のデターユをえがきながらも、それをきく人間、とくに、ぼくのような信仰をもたないものには、そこにヴィジョンらしきものの輪郭だけが、なにかの光背のように感得できるとしか言えないのである。つまり、ヴィジョンそのものではなくて、ヴィジョンの感覚とでも言おうか。こうした貴重な機縁を与えてくれるもののひとつが、いま挙げた、第八楽章における終止のくりかえしである。」
(篠田一士『音楽の合間に』より)
私にとってもっとも重要なメシアンの録音をまず一枚挙げさせていただきます。
メシアン自身がピアノを弾き、また、収容所の中で初演したときのチェリスト、エティエンヌ・パスキエも参加して1956年に録音されたものです。もしどうしても一枚だけにしぼれと言われたら、私はこのCDを選びます。
世の終わりのための四重奏曲
この録音のLPは日本では日本コロムビアが「パルナス1000シリーズ」という1000円盤でいきなり出したものの一枚です。1971年のことでした。そして私が初めて買ったメシアンのレコードでした。
REM-1504-MU
メシアンの代表作の主要なところを集めたCDを次に挙げておきましょう。
演奏もそれぞれ1,2を争う名演ぞろいだと思います。
18枚組みで10000円でお釣りがきます。
メシアンにあまり馴染みのない方は、まずはこちらを聴いてみてください。
- Messiaen: Garden of Love’s Sleep
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