『カラヤンがクラシックを殺した』について、いくつかの疑問点や批判をぶつけてみたいと思います。
もしかするとかなり辛口に見えるかもしれませんが、これはあくまでも、この書物の提起している問題をより創造的に考えるためのものです。
まず最初に「カラヤンがクラシックを殺した」ということで、「カラヤン」に象徴される何かによって「殺された」と著者が考えているものが何であるのかを考えてみたいと思います。
それについて、私自身の考えを明らかにするために、別のブログの方に書いた私の文章の一部を次に引用します。
(以下引用)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
クラシックをある程度以上にご存知の方は、
「タイトルからだいたいどんなことが書いてあるのかわかってしまうぜ、けっ」
と思われるかもしれません。
でもそれは違います。思い浮かべていらっしゃるような内容ではありません。
また、クラシックに全く興味のない方は、自分には関係ないと思われるかもしれません。
でも、それも違います。クラシック音楽なんて聴かないし、カラヤンにも興味がないという人にもこの本は実に多くのことを、それも本当に大切なことを考えさせてくれるのです。
タイトルについて、まず考えてみましょう。
『カラヤンがクラシックを殺した』。
「カラヤンが」というのはともかく、「クラシックを殺した」ということは、クラシックは「殺されている」ことになります。そう、筆者、宮下誠氏によれば、「クラシックはすでに死んでいる」のです。
では、「クラシックの死」というのはどういうことなのでしょうか。どういう事態を指しているのでしょうか。
まず、そのことを考えてみましょう。
そのためには、思いがけない方向から大きくまわり込んで考えてみる必要があります。
幼少のころからサブカルチャーに囲まれて育ち、それらのサブカルチャーの中のある特定の「上質な」作品によって自己形成に多大の影響を受けて成人してきたのが現代の多くの若者たちでしょう。そして、そのような若者の代表として、また、同世代や下の世代の若者たちに寄り添うようにしてそのような若者たちと、その自己形成に力を与えてきたと考えられるサブカルチャーをめぐって、誠実に多くの優れた論を展開してきた人に大塚英志という人がいます。
この大塚英志氏が、サブカルチャーには自我の形成を促すだけの力はなかったのではないかということを『物語消滅論』などで言い出してからもう数年になります。
大塚英志氏が提示した考えをまとめてみましょう。
現代の日本社会の様々なところに、まったく異常な、信じられないような「子供っぽい」ことが起こっているのは周知の事実である。
そして、そのようなことで、さらに社会全体が一種の明るい絶望感に満たされつつある。その根本的な原因は、今日の人間がうまく自我を確立できないからであろう。
今日の人々がうまく自我形成できないのは、かつては近代文学が果たしていたような個人の自我形成を促し補助するような働きを、「サブカルチャー」という領域に属する作品が結局のところ持ち得なかったからなのではないのか。
長い間、「文学」とか「思想」と呼ばれるものが果たしてきた役割――いわば「ビルドゥングス・ロマン」としての役割――を、20世紀後半、特に60年代以降の日本では「サブカルチャー」の領域に属するものが担ってきたと考えられていたのだが、結局のところ担いきれるものではなかったということであろう。
やはり本来の「文学」の力が必要だったのである。
だから、今こそ「文学」は、そして、「文学」にかかわっている人たちは、自分の利益を追求するのではなく、総力をあげて本来の文化的役割を果たすような方向に進まなければならない。
大塚英志氏のある時期以降の認識は以上のようにまとめることができると思います。そして、あまりに長くなってしまいますから、ここに個別には挙げませんが、誠実に今日の問題に取り組んでいる何人もの学者や評論家が、大塚英志氏と基本的なところで共通するものがある考えを表明しています。
このようにサブカルチャーの申し子にして守護神のような存在である大塚英志氏が、「やはりサブカルチャーではどうにもならないところが人間精神にはある」という、この人にとっても大変な思い切った発言をしたにもかかわらず、この国の「文学者」や「文学」に携わっている人々、また「学者」や「評論家」の大多数はそれに応えようとはしていません。
応えようとしないばかりか、あいかわらず多くの「学者」や「評論家」の人々は、「ケータイ小説やライトノベルも立派な文学である」などと言って媚を売ることに終始しています。これは「文学の死」であり、「学問の死」であると言わなければならないでしょう。
別にケータイ小説やライトノベル自体を貶めるつもりは毛頭ありません。私もブログではいくつか読ませていただき、感動したり考えさせられたりしています。とても面白くて意義のあるものだと思います。ただ、ケータイ小説と、例えば、ドストエフスキーやプルーストが同じ意味で文学であるかと言えば、それはやはり違うものでしょう。違うものは違うものとして、それぞれ固有の価値を認めるべきだと思います。
どうもなかなか「クラシックの死」にたどり着けませんね。すみません。もう少しです。
ここまででお話してきたことと、まったくパラレルな関係にあることが、「音楽」についてもいえるのです。
「音楽」を「耳の快楽」、「感覚の歓び」ということだけで考えるならば、「音楽はひとつ」であり、「ジャンルなんて関係ない、良い音楽と悪い音楽、あるいは、自分に合う音楽と合わない音楽があるだけだ」ということは正しいでしょう。
でも、やっぱり「クラシック」の一番大事なところは、違うのです。長々と大塚英志氏のことを書いたのは、このことが言いたかったからなのですが、「サブカルチャーではどうにもならないところ」に関わっていくのが「クラシック」の、他のジャンルの音楽とは決定的に違うところなのです。「文学」の領域で成り立つことは、「音楽」の領域でも成り立つと思います。
それを言葉にすると、「崇高さ」とか「ある種の超越的なものに対する畏敬の念」といったような陳腐な表現しかできないのですが、ともかくそのような「クラシック」の本質に関わるものが今日の世界ではなおざりにされていること、さらには、なおざりにされていることに無自覚になっていること、そのようなことを指して、宮下誠氏は「クラシックの死」と呼んでいるのです。
そして以上に述べたような意味で「文学」や「クラシック」が「死に瀕している」社会は、当然、人間精神が、そして、人間そのものが「死に瀕している」社会であると言えるでしょう。
そのようなことに気づかせ、考えさせてくれるのがこの『カラヤンがクラシックを殺した』です。
と、散々持ち上げましたが、読む上で若干の注意点がありますので、最後に書いておきます。
●第2章に顕著に現れているのですが、カラヤンの録音を具体的にかなりの数取り上げて言及しています。そこはクラシックに馴染みのない人には退屈かもしれませんので、適当に飛ばしてください(宮下さん、ごめんなさい)。
逆に、クラシックをよく聴いている人にとっては、ここは面白い(うなずいたり、腹がたったりします)ところです。
●いろいろな思想家について述べてある部分がいささか紋切り型で、ただの羅列に終始しているようなところが見受けられますが、それは話を早く核心的なところへ進めるためのものだと思います。そういうところを取り上げて、重箱の隅をつつくような批判をするのは本書の場合にはどうかと思います。
今回は、ともかくこの本が画期的なものなので紹介に徹しましたが、さらに詳しい私の解釈や疑問点についてはあらためて書く予定でいます。
ですから皆さん、それまでに(←いつまでだ)本書の「はじめに」と第1章の68ページまでと「おわりに」を読んでおいてくださいね。
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出典『国語入試問題を斬る』11月18日の記事より
この記事に対して、著者宮下誠氏は
「素晴らしい洞察だと思います。『カラヤン』の提起した問題が、このような良質の批評を生み続け、一つの大きな渦になることを心から願っています。」
と、コメントされています。
ということは、もう一度確認しておきますが、「カラヤン」に象徴される何ものかが殺してしまったのは、「目には見えない、ある超越的なものに対して抱く畏怖の念」(どうしても短い言葉で表わそうとすると陳腐な表現になってしまいますが)ということと考えていいのでしょう。
まず、本書のひとつの問題点は、上に述べたようなことが様々な表現で随所に出てくると言えば出てきますし、著者としてもきちんと通読すれば伝わるはずであると考えているようですが、やはり伝わりにくいことになっていることにあります。
そのために、「カラヤン」に象徴される何ものかがもたらした「クラシックの死」が今ひとつ捉えにくいものになっていると同時に、そもそも「カラヤン」に象徴される何ものかの正体も普通に通読した時にはやや見えにくくて誤解を招きやすいものになっているようです。
そのように「カラヤン」によってもたらされた「クラシックの死」が捉えにくくなっていることの大きな原因は「アウラ」という概念というか言葉を使って語っているところにあるのではないかと思われます。ベンヤミンやアドルノを援用したいという意図はわかりますが、今日では、すでに「アウラ」という言葉そのものがあまりにも手垢にまみれすぎ、また、独特の「オーラ」をまとってしまっていて、使う人によってその意味が微妙に、あるいは、大きく異なっていることが多いので、厳密にもともとベンヤミンが使った意味と文脈で使わなければ、いたずらに議論を混乱させるだけだと思います。
本来の意味での「アウラ」ということから考えると、「カラヤン」どころかレコード(今日ではCD)に録音された音楽などに最初から「アウラ」などはないのではないでしょうか。そして、クレンペラーはカラヤンよりもはるかに早い時期からレコード録音を手がけているのですから、話が非常にややこしくなってしまいます。
後編に続く