ジョン・ケージ(1912~1992)という人のことについて少し語りたくなってしまいました。
20世紀の音楽というもののあり方の根本に、とても大きな問いを投げかけ、そして、実際にいろいろな影響を与えた人です。
特に、1950年代初頭に、「偶然性の音楽」・「不確定性の音楽」ということを提唱してから後のこの人の「音楽活動」は、ただ音楽の領域だけにではなくて、芸術の全体に、さらには、西欧の近代合理主義の根幹のところに関わってくる、きわめて重大な思想的な問題をつきつけてくるものであったと私は思っています。
今、「きわめて重大な思想的な問題」などという無粋な言葉を使ってしまいましたが、この人は、そんな言葉がふさわしくないような、飄々とした、しなやかさを感じさせる人であったようです。
そのようなこの人の「音楽」の中でも、特に有名になってしまい、様々なところで言及されることで時にとんでもない誤解にさらされている「作品」の代表的なもの(ということは、これだけではななくて、他の「作品」についても不正確なことがいろいろと言われているのですが)が『4'33"』でしょう(注1)。
発表された当時の、音楽的・思想的・社会的背景をきちんと把握しておかないと、この「作品」の意味というか、この「作品」が果たした役割というものを的確に理解することは難しいだろうと思います。
この人の「偶然」と「不確定性」の音楽、さらにそれ以降の音楽について、いつかは本格的に論じたいとは思いますが、今日は、この人の「音楽」がそのようなきわめて「問題提起的」で「前衛的」になる前の、何とも不思議な魅力に満ちた素敵な作品を紹介したいと思います(注2)。
それは、40年代に作曲された、プリペアド・ピアノのためのいくつかの曲です。
「プリペアド・ピアノ」というのは、ピアノの弦の間に、木、ボール紙、ゴム、金属など様々な材質の小さな物を挟み込むことで、ピアノの響きを変化させて、一種の打楽器アンサンブルのようないろいろな音を出せるようにしたものです(注3)。
ケージが1940年にBacchanaleという曲を作曲するときに「発明」したとされています(注4)。
16曲の「ソナタ」の間に4曲の「インターリュード」がはさまる一時間ほどの大作『ソナタとインターリュード』(1946~48)を頂点として、このプリペアド・ピアノのための数多くのすぐれた、とても魅力的な作品が、1940年から1950年代の初めにかけて作曲されています。それを3枚のCDに収録して、しかもきわめて廉価で出しているのが、このアルバムです。
でも、やはり、この中でまず真っ先に聴いていただきたいと思うのが、CD1に入っている
A Valentine Out of Season (1944)
という作品です。日本語で言うなら、
『季節はずれのヴァレンタイン』
1944年というたいへんな時期、ケージは個人的にも色々な問題を抱えているときでした。そんな中で、妻のジーニアに贈られた曲です。
『季節はずれのヴァレンタイン』。
なんて素敵なタイトルでしょう。
20世紀の芸術、いや、西欧近代の芸術に対して、根本的なところからの反省をせまるような前衛であり続けた人は、一方で、このように細やかな優しさと機知を兼ね備えた人だったのです。というよりも、このような優しさや機知があったからこそ、前衛であり続けたというほうが正しいのかもしれません。
(注1) この作品について論じだすと際限がありません(が、ひとことだけ言わせていただきますが、この「作品」」は、美術の領域におけるマルセル・デュシャンの有名な『泉』と共通するものがあるコンセプチュアルなものとしてまず第一に捉えるべきでしょう。ただし、これ以後のケージの作品がすべてコンセプチュアルなものであるかのように考えるのを私は断固拒否します)。まず現物そのものをご覧ください。私が所蔵している楽譜(?)を載せます。
どうやらピアノのためだけの曲ではなさそうです。
(注2) 音楽学者ラリー・ソロモンはケージの作曲活動を5つに区分しています。それによると、第2の時期が「ロマン主義の時代」(1938~1950)、第3の時期が「〈偶然〉と〈不確定性〉の時代」(1951~1969)ということになります。
(注3) プリペアド・ピアノのプリパレーションの仕方は、曲によっていろいろですが、楽譜に厳密な指示があります。
これも実物をひとつご覧ください。
ちょっとわかりにくいのですが、どこに何を挟むかが指示されています。
(注4) プリペアド・ピアノの誕生のきっかけとなったBacchanaleの作曲の年代(つまりプリペアド・ピアノ誕生の年)について、なぜか多くの資料が1938年としていますが、この理由は不明であるようです。ポール・グリフィスによれば、ケージによる自筆譜に「1940年3月」と書かれているとのことです。
細かい年代やラリー・ソロモンの説についてはポール・グリフィス著、堀内宏公訳『ジョン・ケージの音楽』の本文および訳者解説を参考にしています。