秀家が八丈島の島民と仕送りを分かちあって約360年。
八丈島と金沢の距離、約480㎞。
時間と空間を超え、人は今もつながっている。(前回ここまで)
加賀藩が八丈島の秀家とその子孫に仕送りを260年続けていたって話もすごいけど、
その仕送りを分けてもらった島民の子孫が今もその恩を忘れずにいるって
すごくないですか!
だって、仕送りは江戸時代で終わるので平成にはその分けてもらった島民はもう
いなかったはず。
なのにわざわざ八丈島から金沢にお参りに来られるって・・・
そんな心が今も、日本に、ある・・・!
そうそう、そもそものスタートとなった疑問はこれだった。
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八丈島に豪姫(ごうひめ)の像がある。
豪姫って前田利家とまつの子。加賀藩の人。
なんで、その人の像が八丈島(東京都)に?
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ここまで調べたことをまとめるとこうなる。
・豪姫は岡山城主宇喜多秀家と結婚
・豊臣側についた秀家は関ケ原の戦いに敗れ八丈島に島流し
・豪姫は八丈島に付いていくことを許されず、実家の加賀藩へ戻される
・八丈島での生活に困窮する秀家に配慮して加賀藩は仕送りを行う
・豪姫享年61、秀家と息子たちに再会は叶わないまま加賀藩(今の金沢)で亡くなる
・秀家は仕送りを島民に分かち合うなどをして八丈島での人生を全うする、享年84
さて、八丈島に豪姫の像ができた経緯はといいますと、
1997年、岡山城開城五百年記念として岡山市が行事を行い、その一環として八丈町が秀家と豪姫の像を設置したものだそうです。
離れ離れになってしまった二人を思って建立されたものだそう。
くーっ。これも泣ける。だって、岡山市の行事で八丈町が設置したなら、秀家の像
だけにするって選択肢もあったはずだ。
そこを、あえて、八丈島には行ったことのない豪姫さんと並んだお姿で像に
するって・・・
ううう・・・、八丈町のみなさん、岡山のみなさん、泣かせることをやって
くださいます。
以上が、加賀藩の豪姫さんの石造が八丈島にあるって顛末でございました。
意外な現象の背後には、尋常ならざる人々の想いがあるってことですね。
秀家の像の横で八丈島の風に吹かれる豪姫さんの像。
いつか現地を訪れて実物を拝見し、時空を超えた人々の想いに触れてみたいです。
(終わり)