6月26日(水) ☁ 21→29℃ 明け方雨のち曇り
「どうする家康」振り返り、今朝は第二弾、松平家&徳川家の菩提寺、❷「大樹寺」−①をお届けします、↓山門の前から見た「ご本堂」、1855年に焼失し、1857年13代将軍「家定公」により再建されました、…
↓「大樹寺」沿革、興味のある方は拡大してご覧下さい、こちら「大樹寺」も「伊賀八幡宮」と同じく、松平四代「親忠公」により、1475年の建立になります、…
外から見た、↓「山門」、大き過ぎて90mm単焦点Macroレンズでは全体の撮影は無理でした(やはり広角レンズ必要でした)、…
↓境内から見た「山門」、ご本堂から山門、そしてその先の「総門」越しの眺めをビスタラインと呼び、今もそのライン上にビルやマンションの建設は制限されています、…
その理由は?、↓「総門」の間に小さく見える「岡崎城天守」、ご本堂から見る南北のこの景観を遮ることなく見渡せるよう、今も条例で維持しています、…
↓ご本堂の鬼紋も「伊賀八幡宮」と同じく「三つ葉葵」、…
いつでも中に入れますが、今回私も、↓ご本堂の中でお参りさせてさました、…
徳川の旗印、↓「厭離穢土 欣求浄土=おんりえど ごんくじょうど」の八文字に囲まれたご祭壇、…
この言葉こそが、「桶狭間の戦い」で織田信長公に敗れ「大樹寺」に逃げ込んだ家康公(当時は松平信康)に、当時の住職の「登誉天室上人=とうよてんしつしょうにん」が悟した言葉ですね、当時19歳、…その歴史の地、↓「松平八代墓所」に向かいます、…
↓若き「家康公」が自害しようとし、思い留まった「松平八代の墓所」、正に転機となった場所、中に入れば歴史を感じます、…
八代は岡崎城主だった父「広忠公」、九代が家康公になりますが「徳川家」を興しました、↓一番奥が家康公の御墓になります、…
↓「家康公御墓」、立て看板に「顕彰墓」とありましたので、広く功績を讃え知らしめるお墓、供養塔の意味合いでしょうか、…
↓国の重文「多宝塔」の説明板、1535年松平七代「清康公」建立、…
↓墓地の片隅にぽつんと在ります、90mmレンズ撮影、40m位後方から撮りました、…
1535年は室町時代の建立、歴史を感じます、↓近くから撮ればこのサイズしか撮れません(広角レンズを又々後悔)、…
「大樹寺」−②に続けます、…今日も良い一日をお過ごし下さい、では