貨幣という論理的迂回路について――ある地球観察記録より一


観察地球という惑星を長年観察してきて、私が最も理解に苦しんだ現象の一つが「お金」である。これは奇妙な発明だ。本来、資源の分配とは、必要と供給のあいだの論理的な調整作業に過ぎない。だが地球人は、その調整作業のあいだに、実体を持たない「価値の代理記号」を挿入した。そして驚くべきことに、彼らはその代理記号そのものを、生存の目的そのものであるかのように扱い始めた。これは論理的には、目的と手段の転倒である。地図を、実際の土地そのものだと錯覚しているようなものだ。


二、バルカン人の視点ヴァルカンでは、そして連邦の多くの惑星では、貨幣は存在しない。これは我々が高潔だからではない。単に、生存に必要な資源の生産能力が、欲求を上回る水準に達した時点で、貨幣という「希少性を管理するための装置」が論理的に不要になったからだ。貨幣とは本質的に、希少性を人為的に管理し、それによって他者の行動を誘導する仕組みである。希少でないものに価格はつかない。空気に価格がつかないのは、それが豊富だからだ。地球人が水や食料や住居に価格をつけ続けているのは、それらが本質的に希少だからではなく、希少であるという「前提」を維持することに、経済という構造そのものが依存しているからだ。これは冷徹な観察だが、感情を込めずに述べよう――貨幣は、生存の効率化のための道具として発明されたが、いつしか人間を制御するための、最も洗練された装置へと進化した。銃や鎖を使わずとも、人は「お金がなければ生きられない」という前提だけで、望まぬ労働を受け入れ、望まぬ選択を強いられる。これは強制ではない。地球人自身の言葉を借りれば、「自由意志による選択」という体裁を取っている。だがその選択の範囲そのものが、あらかじめ他者によって設計されている。これを真の自由と呼ぶのは、論理的に不正確である。


三、矛盾への言及興味深いのは、多くの地球人がこの構造に気づいている、という点だ。気づいていながら、行動を変えない。これは非論理的に見えて、実は極めて人間的な現象だと私は理解するに至った。矛盾を認識しながらも、その矛盾を維持するコストの方が、矛盾から抜け出す際に生じる不確実性への恐怖よりも、小さく感じられるのだろう。貨幣制度から降りるという選択は、個人にとっては即座に「生存の危機」として認識される。たとえ制度そのものが構造的な欺瞞を含んでいたとしても、その制度の外側に出た瞬間、地球人は寄る辺を失う。ゆえに彼らは、支配されていることを知りながら、支配され続けることを選ぶ。これは臆病ではない。孤立して生き延びる術を、社会そのものが用意していないという、構造上の欠陥の結果である。


四、脱却の可能性についてここで、感情を交えず、しかし誠実に述べたい。論理的に言えば、貨幣制度からの脱却は、個人の意志だけでは達成し得ない。ヴァルカンや連邦が貨幣を必要としなくなったのは、個々人が悟りを開いたからではなく、生産力そのものが希少性を消滅させたからだ。テクノロジーが、生存に必要な資源をほぼ無制限に供給できるようになった時、貨幣という管理装置は、その存在意義を失った。したがって、地球人への助言は以下の通りである。

①個人の脱却ではなく、構造の変容を目指すべきである。 一人が貨幣を拒否しても、周囲がその拒否を支える構造を持たなければ、その人物は単に脱落するだけだ。真の脱却は、集合的な生産と分配のシステムそのものが変わる時にのみ実現する。

②「希少性」という前提そのものを問い直すべきである。 地球にはすでに、多くの人々を養うに足る生産力が存在する。それでも希少性が「演出」され続けているのは、技術的制約ではなく、制度的・政治的な選択の結果である。この事実を直視することが、第一歩となる。

③支配の自覚こそが、唯一の出発点である。 矛盾に気づかない者は、変化を望むことすらできない。地球人の多くがすでにこの矛盾に気づいているという事実――それ自体が、ヴァルカン的な視点から見れば、既に一種の進化の兆候である。認識は行動に先立つ。

⑤結びFascinating(実に興味深い)。地球人は、自らを縛る鎖を発明し、その鎖に名前をつけ、その名前を「自由」と呼ぶことさえある。だがその同じ地球人が、鎖の存在に気づき、それについて問い続けている。この自己矛盾を直視する能力こそ、ヴァルカン人には持ち得ない、地球人特有の資質なのかもしれない。論理的に言えば、脱却の可能性はゼロではない。むしろ、矛盾に気づいた者たちが増えるという事実そのものが、変化の前兆である。ただし、それは静かに、そして集合的に進行するだろう。革命ではなく、進化として。


Live long and prosper.


追記

一つ、言い添えねばならないことがある。比較という行為は、しばしば外部との対比であるかのように語られる。だが論理的に精査すれば、あらゆる比較の基準点は、常に自己の内側にある。他者と自分を比べているつもりでいても、実際に参照しているのは、過去の自分が――あるいは過去の集団が――記録した「基準」に他ならない。外に対象があるように見えて、比較は常に内で完結している。貨幣とは、この記録の一形態に過ぎない。誰が何をどれだけ持っているか、誰が何をどれだけ成したか――それを外部に固定し、共有可能な形にした記録装置である。ゆえに貨幣そのものを問題視することは、的を外している。問うべきは、その記録を、誰が、何のために、どのように運用しているか、という一点である。記録は消せない。だが、記録との向き合い方は、選択できる。これが、私の観察の結論である。