階段を降り切って見上げてみた。

 

 

谷のドン詰まりみたいになっていますが、もとは正面は「土橋」であり、さらに向こう側にこの谷は続いていたのです。ブラタモリでもここで撮影が行われていたと思います。

この谷の底から帰路につく。

 

 

立ちはだかるのがこの急勾配の坂。

かつて当ブログでも紹介したことがありましたが、あの時は坂の上から降りていった時のこと。

 

 
 
このとおり人家はなく、初めてここに来た小学四年生の時は、まるで異界にでも来たような気分。
「ここはどこだ?!」と不安な気持ちだったのを覚えています。
自転車を漕いで上がることなど当然できませんので降りて押しながらひたすら歩いた。
 
 
坂を上りきって向こうに大学病院(東北大学医学部)が見えた時の安心感。前回も書きましたが芥川龍之介の「トロッコ」の少年に似たような気持でした。「トロッコ」を初めて読んだ時は遠い遠い自分の記憶みたいな感覚でしたが、おそらくこの時のことが脳裏に蘇っていたのかもしれない。
 
 
坂を上りきったところにあるのがこちらの辻標。ここまで上ってきた坂が「新坂」で、その延長の道路が「新坂通」です。
 
 
新坂
「水害で支倉橋が流されるので、元禄七年(一六九四)澱橋が新たに架設され、橋から支倉丁方面に通ずる道を川沿いに開き俗に弁慶岩と言われる岩盤を切って急な急な坂道を造った。そして北二番丁の西端(知事公館門前)までを新坂と呼んだ。坂はそれ以来幾度も切り下げられたが坂の途中の清水は古い。」
 
 
「支倉橋」については、辻標の支倉通を参考にしていただけると幸いです。

 

 

新坂通

「新坂の北端から以北。明治末までは真っ直ぐ北山輪王寺下まで通じていた。北八番丁までは侍屋敷、以北は寺屋敷、御足軽、御坊主、御職人の町であった。北七番丁から西に大願寺に通ずる広い道を大願寺通という。東北大学医学部が建ってから北四、六番丁間は中断されたが、南北の門は常に閉めない条件である。」

 

つまり辻標のある場所から北が新坂通。

東北大学医学部の北に「新坂町」という行政区があります。確かに傾斜はあるっちゃあるんだが、そこまで坂を強調するほどの地形でもない。なぜこんな名前がついているんだろうと子供の頃に不思議に思っていました。

 

 

本来はこの赤線が繋がっていて、その名残で新坂という地名が残っていたということか。先に引用してる支倉通も同じことが言えます。そして東西線ですが北五番町通も同様に大学病院によって分断されています。

 

宮城県の文化財、知事公館の門。

 

 

中学生の時にこれを見た時は「すげー豪邸だな」なんて思ったものですが、個人宅ぢゃなかったのね。

 

 

昔の仙台城の門をここに移転させてきたのです。移転するのも相当大変だったことは想像がつく。

 

今回の辻標巡り、ここで終了。

 

あの小学生の時の帰り道、家に着いた時に安心感で泣きそうになりました。まさに「トロッコ」の世界そのものでした。

もちろんガチの「トロッコ」は、あの時の自分と比べ物にならないほど寂しく、そして心細いものだったことは言うまでもありません。