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「世界一周の日本人第一号」津太夫という人です。

ほんとはこのブログもその人の功績を紹介するはずだったんだが完全にそれてしまったわ。

 

寛政五年十一月(1793年12月)、津太夫など16人は千石船「若宮丸」で江戸に運ぶ米を積んで石巻を出港、塩屋岬沖で嵐に遭い、ぢつに半年もの間壊れた船で太平洋を漂流することになります。

 

 

寛政六年五月、アラスカに近いアリューシャンのウナラスカ島に漂着。ここで現地のアレウト人に救助されますが、船頭の平兵衛が病死。数日後にロシア人がやってきて、ウナラスカからロシア人の基地があるアトカ島に送致され一年ほど過ごしました。

その後、セントポール島、アムチトカ島(大黒屋光太夫が漂着、滞在した島)を経てオホーツクに移動。ちなみにこのルートは長年謎とされていましたが、ワタクシ照井高之が史料をもとに再現しました。

 

 

オホーツクから千島への便を待ちますがロシア政府は15人の帰国を認めず、僅かに日本に安否を知らせる手紙を送るのみ。これがのちに国際問題に発展してしまいます。

15人は三つの班に分けられ、順次内陸のイルクーツクに移動することとなりました。

 

 

イルクーツクに向かう途中、ヤクーツクで一行の一人市五郎が病死してしまいます。イルクーツクには日本人が二人いて、彼らは井上靖氏が書いた「おろしあ国酔夢譚」で知られる大黒屋光太夫の一行の庄蔵と新蔵。

庄蔵は病気がちで、若宮丸の乗り組みの儀兵衛に看取られ寛政八年に死亡。

新蔵が通訳として若宮丸の一行14人の世話をしてくれました。

 

そして14人のうちから善六・辰蔵・八三郎・民之助の四人がロシア正教に帰化します。なお民之助は塩釜の廻船宿の息子で、震災で失われるまで墓碑も残っていました(これはワタクシ照井高之が民之助の故郷で発見!)。

 

善六は新蔵のもとで日本語教師として働き、儀兵衛は実業家に取り入って商人として成功し、他の人たちも大工や漁師などをしながらイルクーツクで生活。しかし最年長の吉郎次が寛政八年(1799)に病死します。

若宮丸の一行は13人に減っていました。

 

 

西暦1803年、ロシアの皇帝アレクサンドル一世がイルクーツクの日本人を首都ペテルブルグ(のちのレニングラード、現在サンクトペテルブルグ)に呼び寄せました。とりあえず手回りのものだけ持って馬車での大移動。それは困難を極め全員が車酔いの事態に。年長者の左太夫と清蔵の二人が途中のトボリスクで脱落してしまいます。

なお、彼らがトボリスクで脱落したことも照井高之のささやかな発見。

また銀三郎がペルミで発病し脱落。ペテルブルグに到着したのは10人でした。

 

アレクサンドル皇帝は、のちにナポレオンとも対決する英雄です。

10人の日本人を呼び寄せた理由は? ロシアはアリューシャンで毛皮猟をしていて、同地で獲れる毛皮を日本に売り、日本から生鮮食糧を買い付けようとしていたのです。津太夫たち日本人は友好の証としてロシアの船で帰国させる、というものでした。

 

しかしすでにロシア正教に帰化している4人は帰国することは叶わず、3人は病死、3人は落伍しており、残りは6人。この中からさらに茂次郎・巳之助の2人がロシア残留を希望。

帰国が決まったのは津太夫・儀兵衛・左平・太十郎の4人となりました。彼らは使節レザノフの一行に加わり、世界周航の船ナジェージタ号に乗り込むことになります。

日本語教師として働いていた善六もまたレザノフの通訳として同乗しました。

 

 

船はバルト海からデンマークのコペンハーゲンへ。200年以上も前に日本人がデンマークに上陸していたんですねぇ。

イギリス沖では、ナポレオンに警戒していたイギリス海軍と遭遇。一触即発となりますがレザノフが交渉してその場を収め、船はイギリスの港町ファルマスに寄港。津太夫たちは上陸することは出来ず、日本人初のイギリス上陸の栄誉はそれから約30年後の尾張(愛知県西部)の 音吉 に譲ることとなります。

 

ナジェージタ号は大西洋を南へと移動し、ブラジルのサンタカタリーナに寄港、1ヵ月ほど滞在しました。これが日本人初のブラジル上陸となります。

この時にロシア人が入手した手長猿を善六は気に入り世話をしますが、数日後に船員によって殺されてしまうという事件が起こりました。ロシア政府の意向はともかく、船員たちは日本人を嫌っていて、こうした嫌がらせも頻繁にあったようです。

 

船は南極圏に入り、世界最大の難所ドレーク海峡を通過して太平洋に出ました。江戸時代に北極圏と南極圏の両方に入った人物がいたのですね。現代でもなかなかないことです。改めて驚くばかり。

 

 

 

太平洋に出たナジェージタ号はポリネシアのヌクヒヴァ島へ。メルヴィルの小説「タイピー」の舞台としても知られるところです。全身刺青の巨人を見た時の恐怖はいかなるものだったか。

そしてハワイを経てカムチャツカに寄港、日本人初の世界一周となりました。通訳の善六はここで船を降り、その後も日本とロシアの間で活躍します。

文化元年(1804)九月、レザノフに伴われた津太夫たち四人は長崎に入りました。長崎では日ロ間の通商に関する交渉が行われますが、日本側は鎖国の方針を決めており、

「通商をタテとするなら友好の証という4人の漂流日本人も受け取る気はないので連れて帰れ」

というものでした。太十郎はこの交渉の時に通訳として臨むように言われていましたが拒否、ついにはナイフを口に突き立てて自殺を図ります。医者が駆けつけて処置をしたので一命はとりとめましたが、その後太十郎はふさぎ込んだまま口を利くことはありませんでした。

 

この事件の後、レザノフは「通称は取り下げる、しかし津太夫たちは帰国させてやってほしい」と役人に交渉し、ようやく津太夫たちは日本側に引き渡されることになりました。

 

翌年(1806)、津太夫たちは地元へと戻ります。足掛け14年にわたる漂泊の生活はここで終了。その後は歴史の表舞台に出ることはありませんでした。