護良親王の墓から南に直線距離だと200メートルくらいの浄妙寺。

しかしそこに行くには一度岐れ路交差点まで戻り、東に600メートルほど歩かなければならない。

 

炎天下で長いこと歩いたため結構ヘロヘロ。それでも浄妙寺を目指したのは、そこが足利直義最後の地だからです。

 

 

ようやく辿りついた、という感じの浄妙寺。

ガイドブックなどにも直義の墓のことは記されず、ただ尊氏の父貞氏の墓があるとしか紹介されていません。

はたして直義の墓はあるのだろうか。。

 

 

浄妙寺の案内板です。

足利初代の義兼について書かれているものの直義のタの字も出てきません。

 

拝観料を払ってから中にある境内案内を見ても、やはり直義のことは出てきません。

 

 

そこで受付の方に直義の墓のことを聞いてみたら、

 

「ガーデンのほうにありますよ~」

 

とのことでした。地図の一番上にある石窯ガーデンテラスのことかな? とそこを目指すわけですが…

 

 

まずは本堂をお参りしてから。

 

 

ガーデンテラスへの案内板。

 

 

階段を上っていきます。ここまで歩いてきて体力も相当消耗した状態なのでキツイ…

 

 

と、直義の墓の案内を見つけました。散策路は結構新しい。

 

 

岩を掘った三つの穴があります。一番手前が直義の墓のようです。

 

 

 

 

なぜ観光ガイドや入口の案内板に書かれていないかというと、ここを作ったのが2~3年前という最近の出来事だったため。

知名度としては貞氏より直義なのですから、早めに案内板に名前を入れてほしいところです。

 

 

あとはのんびりとガーデンテラスを見学してきました。

 

 

 

 

ただ、もう歩きっぱなしのためそろそろヤバイ。再び下に降りることに…

 

 

それでも遊歩道はなかなか良い。

 

 

足利貞氏。尊氏・直義の父に当たります。

 

 

 

南朝がほぼ消滅してから、幕府は尊氏派と直義派に分かれていがみ合いました。それが観応の擾乱。

最初に直義が南朝と結んで尊氏が最も頼りにする高師直を倒し、尊氏と直義はいったん和解。

しかし一度決裂した両者の溝は深く、直義は殺害されるのを恐れて北陸に逃亡します。

 

すると今度は尊氏が南朝と結び、後方の心配がなくなったところで直義と全面戦争。

北陸、関東などで尊氏は連戦連勝、直義は浄妙寺に軟禁され、ここで生涯を終えることとなります。

 

毒殺されたという説もありますが、さだかではなく…

直義もまた悲劇的な最期を遂げた人物の一人ではありますが、父貞氏と同じ寺に葬られたことはわずかな慰めとでも言うべきでしょうか。