金ケ崎城解囲戦 に敗れ、さらに同盟軍北畠顕家 が戦死した後も、新田義貞は唯一の南軍の柱石として越前(福井県)に孤軍奮闘。

鎌倉幕府を倒した実力は間違いないとしても、本来手勢数百程度の新田小太郎義貞がここまで足利尊氏と渡り合えるとは、当時の認識からしたらあり得ないことだったと思うのですが如何。

 

さて金ヶ崎城が落ちて南朝の旗頭とされた恒良親王・尊良親王らが非業の死を遂げ、新田義貞は杣山で息を吹き返すとたちまち越前を席巻します。

その最初の舞台が新善光寺城。

 

 

金ヶ崎城が落ちた後、姿をくらましていた新田義貞・脇屋義助は杣山で力を蓄え、怒涛の如く北陸街道(現国道365号線)を攻め上って今の越前市に侵攻、新善光寺城を一気に落としたものと思われます。

 

 

新善光寺城は現在正覚寺に。越前市役所の西一キロほどですから、ここが越前の要になっていたのでしょう。

 

城と言っても石垣がある近世の城ではなく、平地に大きな屋敷を造り周辺に堀を穿って土塁で囲んだ程度のもの。その痕跡がこの寺の敷地に見られました。

 

 

これは東側の土塁跡です。

 

 

 

西側の土塁跡は大きな木が植えられていました。

 

 

長年の風化によって土塁も姿を消していたんですねぇ。。

 

岩波文庫の『太平記』三巻の年表には越前府城とありますが、これはこの新善光寺城のことでしょう。しかし新田義貞の復活第一戦にしては『太平記』もそっけない。

 

このあと新田軍は加賀から来た一族の軍とともに南北から現在の福井市に陣取る北軍の斯波一族を挟み撃ちにして殲滅するはずが…

京都八幡で苦境に立つ後醍醐天皇がとにかく援軍援軍と騒ぎ立て、新田勢を呼び戻そうとしていました。ただでさえ決して大軍を持たない義貞は仕方なく軍の大半を脇屋義助に預けて京都に向かわせますが、八幡は火が放たれたという情報。

脇屋軍が情報収集に時間がかかっているうちに八幡の南軍は敗退し、京都で足利を倒すこともできず、越前で斯波を滅ぼす最大の機会も逃した格好となったのです。

 

この後醍醐天皇を見ているうちに、のちの中国の太平天国の乱、洪秀全がこれに似ているかなと思いました。

南京が包囲された時、洪秀全は上海を手中に入れかけていた李秀成を呼び戻したため、南京も上海も失っています。