さてもう一度城の全容を掲載。

右下に見える天筒山と金ケ崎城は尾根続き。『太平記』巻十七、二十四章「金ケ崎城詰むる事」に<辰巳の方に当たれる山>とはこの天筒山を指します。

<寄手、城中を目の下に直下す>というところからも、足利勢はこの山に陣取り尾根沿いに金ケ崎城への攻撃を始めていたものと思われます。

金ケ崎城と言っても、もともとはこの天筒山が新田軍の防衛ラインの最前線ではなかったか。いくら小勢と言っても、金ケ崎城の規模では籠城するにも狭すぎる感があるのです。

また二十二章には城兵が「大鳥居」に攻め寄せたことが記されており、岬の突端の金ケ崎城よりも気比神社に近い天筒山の方が合戦の舞台として説得力があります。

おそらく金ケ崎は二親王と新田義顕が控え、配下の武将は天筒山で戦闘行為に及んでいたものと思われます。

 

その後、『太平記』には記されない数度の激戦で天筒山を足利が奪い、章のタイトル通り「金ケ崎城が詰んだ」のではないでしょうか。そして残された兵たちはみな奥の金ケ崎城に逃げ込み、狭い場所に押し込められ食糧難で壊滅するに至ったのではないでしょうか。

 

『太平記』には天筒山から金ケ崎城までの間にあたかも谷があるかのような描き方ですが、現実には尾根に切れ込みを入れた堀程度の防御力しかありません。

 

まず南東にある一の木戸。山を下って攻めてくる敵をここで防ぐのですが、あるのはこの程度の堀。

 

 

もちろん合戦当時はもっと深く、兵が簡単に攻めこめないような柵も作られていたでしょうが、多勢を食い止めるには心もとない。

 

続いての二の木戸。

容易に破れそうもない急勾配の防衛ラインとはいえ、やはり新田は小勢。

交代しながら攻めてくる大軍の足利を数度蹴散らすことは出来ても、いつまでも支えているのは無理だったのでしょう。

また上にあげたマップを見ても、金ケ崎宮から攻め込んだ敵が木戸の背後に回り込めば、ここを退かなければならなくなります。

 

 

三の木戸。

 

 

金ケ崎宮から金ケ崎城の本丸に至る坂。

 

 

金ケ崎城の頂上近くにある古戦場址の石碑。

ここまで登ってくるのに十分ほどでした。『太平記』に描かれる壮大なイメージは、実際にこの目で見て崩れさったのです。

 

 

その石碑からさらに奥に進むと岬の突端。ここが本丸だったらしい。

本丸月見拝殿から見下ろす敦賀湾。新田義貞はここから海に降りて脱出し、越前杣山へと走ったのでしょうか。また気比太郎は恒良親王を舟に乗せて逃がしますが、やはりここから親王を背負って崖を降り、敦賀湾に逃げたのか。

そんな光景が目に浮かぶ気がしました。

 

小学生時代に『太平記』を読んでいて、どうしてもこの場面は新田に肩入れしてしまう。

金ケ崎でしばし粘り腰の新田を見て勝利を期待するものの(もちろん頭の中では足利が勝利者であることくらい知っている)、金ケ崎城が落ちた時のガッカリ感ときたら…