津太夫の世界一周を追う前にちょっと寄り道。

 

鎖国時代の日本、ペリー来航の100年以上も前にロシアの船が日本に来ていたことは意外に知られていません。ロシア人が初めて目にした日本、それは津太夫たちの故郷に近い石巻牡鹿半島でした。

ベーリング海の名前の由来となったベーリングがアリューシャンを探検しているころ、その部下シュパンベルグが四隻の船を率いて太平洋を南下してきました。季節は太陽暦で六月、濃霧の季節。

ロシアと日本の間は国境という概念がなく、霧を挟んで互いに姿が見えないという漠然とした区切りしかありません。その霧の向こうから突如ロシアが来訪し、日ロの歴史がこうして始まりました。

 

元文四年(1739)五月二十三日、二隻の外国船が現れたのは牡鹿半島の南に浮かぶ網地(あじ)島の南東部、長渡(ふたわたし)浜。

仙台藩の公式文書には、「牡鹿郡長渡のうち根組浜という所の沖に唐船(異国船)が二隻現れた」と記されています。

根組浜

 

一体何があったのか。吉十郎と喜三兵衛の兄弟が早朝に漁に出ると、そこには二隻の巨大な船が浮かんでいたのです。

「なんだこれは?!」

と近づく二人。怖いというよりも興味津々だったのか。すると船からロシア人船乗りが手真似で「食べ物をくれ」と言っていた模様。漁師たちは魚を差し出すと、代価として銀貨が手渡されました。

 異国人に対して排他的なイメージを持つ江戸時代の日本ですが、実はこうして友好的に日本とロシアは接触していたのです。

根組浜にはベーリングの案内標識がありましたが、それは石垣の上にあり、夏場は草木に覆われ見ることが出来ませんでした。

 

震災の時に津波を受けた場所でもあり、この標識は今も残っているのか…近いうちに訪問しなければならないと考えています。

長渡は網地島にある二つの集落の一つで、籠剛庵という寺に長渡小学校があったのですが、過疎化のため今は学校は存在しません。

籠剛庵の庭園

 

長渡の町は道路が迷路のように入り組み、住宅地図を持たないと目的地に到達するのはなかなか困難。長渡の船着き場から根組浜まで、どこをどう歩いたのか全くわからないほど。

 

長渡を去ったロシア船、今度は亘理荒浜沖に姿を見せました。この時は三隻です。

濃霧ではぐれていた一隻が合流してきたもののようです。

合流した後、三隻は再び北上してまたも牡鹿半島へ。五月二十八日、今度は網地島の北、田代島沖に投錨しました。

 田代島は猫の島として観光客に人気。網地島では網地島北西の浪入田(なみだ)にロシアの船が来たという言い伝えがあるのですが、おそらく田代島と浪入田の間の海峡に停泊したものと考えられます。

 

 

浪入田は震災前に三軒の家が残るのみでしたが、かつては金山で栄え一つの村を形成していたほどに大勢の人々が生活していました。

浪入田を含め島の北部は網地浜地区と呼ばれています。かつては網地浜小学校が同地区内の常春寺に置かれていました。またこの寺が所有する聖観音像は鎌倉時代の作で、宮城県の重要文化財に指定されています。

 

網地浜地区の北西には太平洋に突き出した半島があり、そこに建つ熊野神社からは広い海が見渡せます。そのロシアの船が時空を超えて再びやってくるような錯覚。

 

 

ここでは島の役人千葉勘七がロシアの船に招かれ、酒(ウォッカかワインか)などをご馳走になったのですが、翌日になると異国船の投錨に警戒した仙台藩が石巻から多数の舟を繰り出してロシア船を包囲しようとしました。

ロシアの船は太平洋を越えてきた巨大な戦艦であり、一方の仙台藩の舟は手漕ぎボートみたいなものばかりですが、千人を超える大人数が動員されたとも言われ、多勢に無勢と思ったロシア艦隊は石巻湾を去り、牡鹿半島の東海岸へと避難していきます。

 

そこで見つけた小さな浜、谷川浜(やがわはま)。ロシア人たちはここに上陸し、井戸を見つけて水を汲むと、その家の主平三郎に銀貨を渡して去っていきます。
平三郎はわけがわからないまま見送った――そんな光景が目に浮かびます。

現代に例えれば、UFOが飛来して宇宙人が我が家の水道をひねって水を汲んだ後、きれいな金属のコインを残していったようなもの。

こうして谷川浜はロシア人上陸の地となったわけですが、実はロシア人初上陸の地は、宮城県を通り過ぎて南下していた船の乗り組みが立ち寄った千葉県安房にその栄誉を譲った形となっています。

 

谷川浜の八幡社

 

 

ロシア艦隊の宮城県沖航行ルート

 

網地浜にはベーリングの像があります。

もちろん江戸時代中期の「元文黒船事件」を記念してのものですが、ベーリングその人は日本に来ていません。かといってシュパンベルグの名前が出ていても、まずその名を知る人はいないため、ここは隊長の像が建てられた、といたところ。

 

 

田代島も網地島も震災で 大変な被害を受けました。このベーリングの話題が地域おこしのネタになり少しでもかつての賑やかさを取り戻せることを願います。

このブログを見てくださった方におかれましては、ぜひとも宮城県石巻市牡鹿に観光でいらっしゃってください。

 

これは若宮丸乗り組み最年長の吉郎次の故郷から見た牡鹿。

中央の遠い陸地が網地島、その右が田代島。

 

津太夫たちは元文黒船事件の時にはまだこの世に誕生していませんが、唯一吉郎次だけが十代の少年としてこの事件をリアルタイムで見聞きしていたことになります。

この丘から、吉郎次も網地島のほうを眺めていたのかもしれません。

 

1739年、石巻にロシアから船が来た。そしてその55年後に石巻からロシアに渡った人たちがいる。ベーリングがその接点。不思議な運命のいたずらです。

 

 
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